なんでも代行

☆食餌制限があるので誰でもいいから飲食代行をお願いしたい。私の代わりにアイスクリームやソフトクリーム、パフェ、かき氷、ソーダ味のガリガリ君、ダブルソーダ(以上は溶ける前にさっさと食べ終ることが重要です)、プリン、シュークリーム、キットカットミスタードーナツタータンチェックのパッケエヂのショートブレッド、カントリーマァム、キャラメル、ソフトエクレア、ポッキー、エンゼルパイ、砂糖抜きのチョコレート、ロイズのアーモンドチョコ、マカダミアナッツチョコ、酒瓶の形をして洋酒が入ったチョコ、テキイラ入りの温かいモカジャバ、熱々ピュワココア砂糖抜き、ジャックダニエルズ、テキイラトニック、赤ワインらっぱ飲み、微発泡で濁った日本酒らっぱ飲み等々、地球最期の日の前日のようにたらふく飲み食いしてほしい。

☆旅行は引越と同じくらい大嫌いだが「旅情」は好きだ。コドモのころの記憶によるものかもしれない。列車の長旅で夜になって親戚の住む町へ到着しタクシーに乗って国道を走ると、角の薬局の、くしゃみをするひとの横顔の大きなネオンが見えてきて、そのときやっとよその町にきたことを実感したものだった。

旅行のほうはどこかの誰かに代行をお願いして、私は近場の夜の街を、小路ばかりを選んでカメラ片手に歩き回りたい。ネオン街へほとんど行かない人生を送っているため住み慣れた街の飲み屋街でもじゅうぶんよそよそしく、そのぶん旅情めいたものを感じることができるのである。

☆トイレも面倒なので排泄代行もお願いしたい。先日、夫に頼んだところ「それは出来んのだわ。」と優しく断られたが。

☆そもそも人生の代行を……。

祖父の酒飲み夜話

☆下っぱの歩兵として旧満州に入った祖父は、来る日も来る日も背嚢(はいのう)を背負い一日じゅう歩かせられ、足の裏に水ぶくれができるとヨードチンキをしませた糸を針に通し水ぶくれを刺し貫かれる日々に「軍隊は駄目だ。」とつくづく思ったという。

帰国後、空軍の試験も受けてみたが祖父には不向きであった。そこで二度と召集されないよう必死で勉強し、一発合格で警察官になったのだった。じっさいに六法全書を1ペエヂずつ食べて暗記したそうだ。(全ペエヂ食べたかどうかはわからない)

 

☆祖父が戦争のときに見たという「支那」の農民のこと。

・朝はみんなで畑の端に並んで排泄を済ませる。

・顔を洗うときは手を顔に当て、手ではなく顔を動かす(この動作で中国人だとばれたスパイがいたらしい)。

・彼らは大きな急須に柳の葉をびっしり詰め、お茶として飲んでいたという。私は祖父に訊いた。

「んまいの?」

「んまくないさ。」

・放し飼いの豚の捕まえ方。朝、縄で輪っかを作り、そこいらを走り回る豚の首に無理やり引っかけ、あとはひとりのひとが豚に引きずられながら輪っかを少しずつねじり続ける。そうすると夕方には豚の首が絞まるのだという。気の遠くなるような絞め方に祖父は呆れていた。

・祖父が見た「支那」の農民は長ギセルを使っていたという。しかし口にくわえれば長すぎて火皿に手が届かず火を点けられない。火皿に火を点ければ口にくわえられず吸い込むことができない。そんな長ギセルで彼らはいったいどうやって煙草を吸っていたのか。昭和も終りのころに聞いた話だったが、祖父は「あいつら、まだやってるのかなあ。」と心配そうだった。

・大陸の大きな夕日。とにかく夕日が大きかったと話していた。

 

☆大連市に滞在したときは、美しい町並みを歩き、立入りが禁止されていたコンサートホールでオーケストラの演奏をこっそり聴いたりした。

 

スタルヒンのお母さんがこの町の自衛隊界隈を「文化パーン」と呼びかけながらパンを売り歩いていたのをよく見たという。

 

☆祖父が直接見聞きしたわけではないが、この町のいわゆる「英霊の帰還」の話もしていた。

ある夜、戦争中は「師団通り」と呼ばれたメインストリイトから電車通りを抜けて第七師団にいたる道を歩く大人数の兵隊さんの足音を聞き、衛兵が迎えた。激戦の地からの帰還兵だったらしい。挨拶は交わされたが、その後は人っ子一人おらず、まさに「かき消つやうに失せぬ」であったという。当時、地元ではかなり有名な話だったらしい。

 

☆警官時代、まだ新人だった祖父は「仁左衛門殺し」の現場をひとりで夜通し警備するよう任されてしまった。彼はお化けと暗闇が怖いため、一晩じゅうおびえながら障子に血しぶき飛び散る生ま生ましい殺人現場にひとりぽっちで立っていた。さぞかし長い夜だったろう。朝になって大勢の警察官が現れたときには気が抜けたと言っていた。

 

☆これも警官時代のお話。夜、仲間とお酒を飲み泥酔して、オート三輪の荷台にお胡座をかいてうたた寝したまま家まで送ってもらうはずが、急な坂道を走行中、お胡座の体勢のまま転落し、おいてけぼりにされてしまった。しかし眠っていた祖父はそんなことは知らず、道路の真ん中にお胡座をかいて眠り続けた。しばらくして目が覚めると、自分の現在地がわからないことに気づく。終戦前後の東京のこと、夜は真っ暗闇であったが、一つだけ、向こうに赤くて丸い光が見える。目を細めよくよく見ると交番である。仕方がないので祖父は千鳥足で交番へ行きお巡りさんに尋ねた。

「すみません、ここ、どこですか?」

自分だってお巡りさんなのに(笑)。

 

☆これまた警官時代。仮眠中、緊急出動の要請があった。すばやく身支度をしてポールをすべり降り車で出発するのだが、当時はゲートルという厄介なものを脛に巻かねばならず、寝ぼけた祖父は自分の脚をベッドの脚にゲートルで固定してしまい、立ち上がっても動けない。仕方なく急いでやり直し、ポールをすべり降りたときには遠ざかる車の後ろ姿が見えたという。間一髪、惜しかった。

 

☆も一つ、警官時代を。夜勤明けなのか、まだ始発電車も走らない時間に明け方の暗い道をひとり歩いて帰途についていた。とあるガード下にさしかかったところで黒い人影がわらわらと現れ祖父の行く手を阻んだ。即座に人数を確認すると16人。ある犯人の逮捕に祖父が関わったことを逆恨みしてのことだった。1対16。柔道初段の祖父は制服をどろどろに汚しながらどうにかその場をしのいだ。帰宅も大幅に遅くなり、迎えに出た祖母が泥だらけの祖父を見て「どうしたの?!」と驚くと、祖父は「闇討ちだ。」とひとこと答えた。酔った祖父は同じ話を何度もくりかえしたが、この話はたった一度しか聞いていない。それほど怖い思いをしたに違いなかった。

 

☆そんな祖父が、ある事情から警官の職を辞して、とつぜん仲間たちと材木屋を開業した。最終的に祖父は木目を見れば何の木かわかるひとになっていたらしい。

 

☆いつごろのことか、またどの地域でのことかは失念したが、屠殺業者を「イッタ」と呼んでいたと語った。「イッタ」とは「穢多(えた)」の変化だろうか。

 

☆私がまだ幼かったころ、木工場の工場長になってからは土曜の夜はオールナイトで中央公論を読んでいた。

 

☆リタイアしてからは毎日パチンコで負けていたが、「お母さんには内緒だぞ。」とよくおこづかいをくれた。

 

★お酒を飲みながら夜な夜な祖父が語ったことをいくつか思いだして書いてみた。私の記憶ちがいで事実に反することもなかにはあるかもしれない。その際はご指摘いただければ幸いである。

(なにしろ祖父はもうこの世のひとではないので、指摘してもらおうにもかなわないのであった。)

私のGR

☆GRと白黒フィルムの日々がひどくなつかしく思いだされるときがある。右手がGRの鋳物の感覚を恋しがって困ることもある。縦に構えればあつらえたようにぴったり親指の位置にシャッターがあったのだ。架空のGRでもいいから手に持ちたい。

☆あのGRで何枚の写真を撮ったか、そのためにどれだけの距離を歩いたか。暗くて撮れなくなるまで撮るのは毎度のことだった。疲れてふらふらになるまで撮るのも当たり前だった。36枚撮りを10本以上ポケットに入れたのに足りなかったこともあった。GRを右手に握ったままポケットに入れて息があがるまで「獲物」を探し歩き、獲物を見つけた瞬間立ち止まり息を止めてシャッターを押し、撮り終えるとその場から逃げるようにすぐまた歩きだす。このくり返しだった。迷子になることも多かったため小さな住宅地図も携行したが、とにかくGRと私はいつも「二人きり」だった。

☆いま私のGRはどこでどうしているのだろう。

音楽に専念しようと、部屋で眠っていたGRを手放すことに決め、そのころよく行っていた或る写真ギャラリーの主(GR愛用者)に思い切って進呈したのだが、その後ギャラリーは消滅、ギャラリーの主の消息もわからないままだ。ギャラリーの書架にあればいつでも見られると思い、桑原甲子雄など、気に入りの写真集も贈呈したのだが、もう二度と見ることができなくなってしまった。せめて大事にされていればいいが、GR。

☆GRは、私に写真を撮らせてくれた立派なカメラだった。ISO1600の白黒フィルムで真っ昼間から撮影するバカな私につきあってくれた「恩人」のことが未だに忘れられなくて困っている。

お江戸の桜

☆いまごろお江戸ではきっと、ソメイヨシノや何とかヤマザクラはおおかた散ってたくさんの八重桜が咲いているころだろう。お江戸の八重桜はふんわりと大きな花で、見るたびにジャンプして喰いつきたい衝動に駆られたものだった。八重桜は、桜餅によく似ているように私の目には見える(お江戸の「道明寺」は北海道では「桜餅」と呼ばれる)。病的に桜餅が好きだからだろうか。

☆コドモのころ、庭に背の低い華奢な八重桜が一本あり、春の終りごろになると細い枝に小ぶりで控えめな花をつけた。こちらは桜餅には見えなかったが、気に入りの庭木の一つであった。これも私が八重桜を好きな理由だと思う。

☆桜の時期にお江戸で知ったことは、桜はひとを狂わせるということだった。

真っ昼間、穴場的な桜の名所へ散歩に出かけて見たものは、桜の木の下の石段に腰をかけ、桜を見ながらコンビニ弁当を一人で食べるOLさん、自転車の籠にカメラを二台積んで橋の上から桜を狙ういかにも可愛らしいおばあさん(短い橋の上にはカメラを構えたひとがぎっしり並んでいた)、人混みのなか一心不乱に地面を突ついて歩くふっくらとした茶色い雌鶏と、その様子をしゃがみこんでじっと見つめる小学四年生くらいの男の子、お散歩の途中で急にごろりと寝そべって桜を見上げ、飼い主のおじさんからぼそっと「花見か?」と訊かれる犬、全力で合唱の練習をして拍手喝采を浴びるどこかの合唱団、等々。

みんな騒いだりせず、それぞれ静かに桜を楽しんではいるのだが、どこか様子がおかしいというか、なんとなく空気がざわざわと騒がしいのだ。北海道の桜にはそういう雰囲気は感じない。

お江戸の桜には、きっと何か隠された秘密があるにちがいない。それまでお花見にまったく興味のなかった私が「明日もまた見に来よう」とうっかり思っていたのだから。

☆テレビやインターネットでお江戸などの桜の映像を見て、来月に予定されている当地の桜をわくわくせずに待っている今日このごろだ。

人生に疲れた9歳が考えたこと

☆9歳、小学3年のとき、私はすでに青息吐息だった。疲れた。とにかく学校だけでも休ませてくれ。いますぐ休むことができないなら、義務教育の間はなんとか我慢するから、そこから先はしばらく休ませてくれ。そうでないとその先どうすればよいのかわからない。そんな危機感をいつも抱いていた。相談できるオトナは一人もいなかった。

☆両親は学校の味方、世間の味方で、ガキは学校へ行く義務があるのだからその義務を果たせ、世間体を考えろという立場だ。私の精神的肉体的疲労、どうしようもない倦怠感など眼中になく、私もそれを上手に訴えるほど日本語が達者ではなかった。

まあ、たとえ疲労感、倦怠感を上手に伝えることができたとしても、自分だけ楽をしようと思うなよとコドモのケツを叩いて終りだったにちがいない。なにしろいちばんかわいそうなのは自分たち、貧しい家庭で育ち頭がいいのにろくに教育も受けられず社会的に報われていない自分たちだと思っているような両親だったから、高熱を出していないコドモや病気にかかっていないコドモは負けてはいけない憎い「敵」のようなものだったようだ。

☆幼いころ、父が私を胡座の中に入れて「新品の服を着られるのはお父さんのおかげなんだよ」「裕福なのはお父さんのおかげなんだよ」と耳もとで囁いた。幼いながら私はどんな顔をすればいいのかわからず、ただただ困惑した。たしかに洋服は新品を買ってもらってはいたが、妹は私のお古ばかりだった。「裕福」な生活などしたおぼえがなかったので父の言葉を肯定するわけにもゆかず、さりとて否定することもできず、だまってうつむくしかなかった。

☆さて、ようやく義務教育を終え、高校にも合格し、母と二人で高校の入学式へと向うバスに乗りこんで気がついた。これは新しい3年間の始まりではないか。この道をどう降りるかを考えたが方法が見つからない。仕方なく朝7時前のバスに乗り高校へ通った。

入学式から10日ほど経ったころ、うまい具合に病気にかかった。お医者さんが通学は無理だというので1年間休学することになり、念願だった休息を手に入れたはいいが、けっきょく高校はドロップアウトしてしまった。

お葬式もお墓も仏壇もぼんさんも

☆私が死んだら適当に焼いて、残った骨はごみとして捨ててもらえればありがたい。

もしもそれが法律上の問題でかなわなければ、手間をとらせて申し訳ないが、骨を粉砕して道路でも空き地でも道ばたでも川でも、とにかくそこらへんに無造作にばらまいてくれればよい。トイレに流してもらっても別段かまわないし、花咲かじいさんごっこに使ってもらってもけっこうだ。

しかしこれも法律に触れるならどうすればいいのか。骨壺に詰めこんでお墓にインしかないのだろうか。まあ、死んだら死ぬだけだが、自分が生きた痕跡はできるだけ残したくないのだ。

☆私が死んだら、生前関係のあったこの世のひとたちには私のことなどきれいさっぱり忘れてほしい。身近なひとが死ぬと衝撃を受けたり悲しんだりするから、はじめからいなかったひとのように思われたい。赤の他人が、ネット上にある私の渾身の音楽をたまに再生したり、私以外は誰も見ないこのへっぽこブログを稀に利用すれば幸いだ。

☆私は権力者ではないので巨大な墳墓などは望まない。私という死人は忘れ去られればよい。死後、生きているひとの手をわずらわせるのはいけないことだと思う。死体の始末だって、運んだり焼いたりばらまいたりしてもらう手間を考えると申し訳なさでいっぱいだ。役所の手続きなどもややこしい。とはいえ鳥葬でさえ人手がかかる。可能であれば人目につかないところで野垂れ死にするなど遺体が発見されない方法が最良だが、いまの世の中、それは困難だろう。ここは厳冬の北国なので真冬の行き倒れという手があり、これが理想に近い形なのではなかろうか。現実に、春になるとパチンコ屋の駐車場や神社の境内で発見された凍死体のニュースが報じられることもある。

☆人間の「始末」はどうしてこうまでむつかしいうえに面倒くさいのか。やはり生まれないのがいちばんだ。

私の5年前

☆あの日あのとき、私はアパアトの7階の自室に一人でいた。まず壁の一部、天井近くから「めりっ」というすごい音がしたかと思うとやがて部屋がゆっくりと揺れ始めた。地震がくると私は必らず波乗りのポオズをする(実際の波乗りは未体験)。経験上これで震度4まではわかるからだが、あの日は経験したことのない揺れ方だった。横揺れが徐々に大きくなってゆき、やがて建物ごと揺さぶられた。台所にぶら下げた調理道具や洗濯物のハンガアは静かな音を立てて長いこと揺れていた。

山勘だが、私が住む町はたぶん日本でいちばん地震が少ないと思う。たまの震度4がせいぜいだ。あの日も7階だから震度4程度に感じたが実際は3だろうと判断した。ただ時間とともにだんだんと激しくなる長時間の横揺れは、遠くでとんでもないことが起きていることを予感させるにはじゅうぶんだった。それが怖かった。

なんでもいいから情報が欲しいと思った。当時はスマホ所有者ではなかったし、テレビも捨てたあとだった。ラジオもない。とりあえずスーパー銭湯へ行っている交際相手に電話してみたがつながらない。しばらくしてやっとつながったが、地震の最中、彼はお湯に浸かっており、地震のことをまったく知らなかった。私の昼間の記憶はここで途切れている。

☆夕方あたりから彼の部屋へ行き、二人で並んでテレビを見つづけた。想像をはるかに超える衝撃的で恐ろしい映像の連続だった。テレビ局のスタジオの緊迫感がやけに嘘っぽく感じられた。わるい夢を見ているような気がしてもう見たくないのに目が離せない日が、余震とともに何日も続いた。そんなふうに半ばパニック状態で恐怖心からテレビにかじりつくのは9・11のアメリカ同時多発テロ事件以来のことだった。

東京大空襲と祖父

☆前にも書いたが、祖父は終戦前後の東京で警察官をしていた。私が小さいころから、大きくなっても、晩酌の席では警官になるまえの軍隊での話や警察時代の話を聞くことができた。酔った祖父は同じ話を何度もくりかえし、私はその都度いま初めて聞いたかのような顔をして聞き入った。それほど祖父の話が好きだった。

☆そんな祖父がただの一度も触れなかった話題がある。東京大空襲の話だ。祖母によると、東京大空襲のあと、祖父は一週間ほど家に帰らなかったらしい。

☆ネット上にある東京大空襲の画像を見てみると多くの黒焦げの遺体が積み重ねられているものが大半を占める。警官であった祖父はこれらの遺体の処理に追われに追われていたのだろう。超が付くほどオカルトだった祖父は、遺体以外の「何か」まで見てしまったかもしれない。オカルトなくせに暗闇と「おばけ」がからきし駄目な恐がりだったから、他の人よりも怖い思いをしたかもしれない。私がオトナになってから、夜勤明けに16人に闇討ちされて一人で応戦し生き延びた話をたった一度だけ聞いたが、なにしろそれ以上の修羅場だったことは間違いない。

☆若かった祖父はあのとき、どんな匂い、あるいはどんな温度・湿度の空気のなかで、何を見、何を聞き、何に触れ、それらをどう感じたのか。祖父が故人となったいまでは知るすべもないが、知ることができるなら知りたいと思う反面、へなちょこの私ごときが知らないほうがいいのだとも思う。きっと祖父は話さなかったのでなく、話せなかったのだ。

ナンパという不可思議な行為

☆「僕、これから家で晩ごはん作って食べるんですけど、来ませんか?」といかにも真面目そうなひとに真顔で言われた夕暮れ時。一面識もないひとである。突然のことにぽかんとしたがもちろん即座に断った。相手はあっさりひきさがってくれたが、自宅での食事に知らないひとを誘うのも、断られてあっさりひきさがるのも、どういう心理なのかわからなかった。あのとき私は三十を過ぎたばかりだった。

☆三十代のとき。まだ明るい時間、市中心部を歩いていたら突然行く手をさえぎり「どう?!」と言うひとが飛び出した。離れたところではお仲間が「スルー? スルー?」と騒いでいる。ぶかぶかのおずぼんの股間の位置が下に大きくずれている2人組であった。よく考えてから、あれはナンパだったのかもしれないとうっすら思うようなよくわからない出来事であった。

☆これも三十代。仕事帰りに夜の散歩をしていたら「ヒマだからセックスしない?」と自称AVのスカウトが声をかけてきた。宿に帰っても仲間とトランプするだけでヒマだから、と。「それだけの理由でセックスできるの?!」と聞き返してしまったが、彼は当たり前のようにうなづいていた。せっかくなのでAVのスカウト事情を聞き出したあと、丁重にお断り申し上げた。

☆まだ十代のころ、いかにもチンピラふうな車の窓から、いかにもチンピラふうな男が顔を出し、にやにや笑って「おい、おまえ、乗れ。」と言った。「おまえ」とは私のことである。昼下がりの閑静な住宅街、それも自宅のすぐそばであった。もちろん乗らなかったが。ヤクザが威張ることができたむかしむかしのお話である。

☆この手の話はこれだけではない。私はよほどバカで安く見える女だったのだろう。しかしいまの私は老人だ。老化を肯定する気はさらさらないが、もうナンパはおしまいだと思うと清々する。

啓蟄といえば

啓蟄の日ではなかったが、十年ほど前、冬眠から目覚めたばかりと思われるカエルに出くわしたことがあった。場所は東京S区。日が傾きかけた道端を半開きの目でゆっくりと歩く一匹のカエルがいた。鼻の先からお尻まで12、3cmもあったろうか。私が育った寒い土地では見かけない大きなカエルだった。

ためしに「初めまして。おはようございます。」「今日、起きたんですか?」「まだ寒くないですか?」「これからどちらへ?」などと静かに話しかけてみたのだが答えてはもらえず、カエルは黙々と歩き続けた。車の往来はけっこうあったし、歩道のない道路だったので、せっかく冬を越して起きたカエルが轢かれないようカエルと車との間を私は歩いた。カエルのテンポで歩いていた私はさぞかし変な人間だったにちがいない。

そうやって日が落ちる少し前まで、私はカエルと歩いた。どこへ行くのかわからないカエルに「じゃ、そろそろ帰ります。お気をつけて。さようなら。」と挨拶して途中で別れ、少し道に迷いながら私は人間の世界へと戻っていった。あのカエルはまだ元気で暮らしているのだろうか。

☆雪国では啓蟄の日は冬の第3コーナーと第4コーナーの中間くらい、要はただの真冬だ。こんな寒いところで冬眠するカエルなどいるのだろうか。もしもまた目覚めたばかりのカエルに遭遇することがあれば、やはりしつこくつきまといたいと思う。

(カエルはなんにも言わないけれど、きっと迷惑に思っていたにちがいない……。)

菊正ジャンキーの恐怖

☆私がコドモだったころ、菊正宗という日本酒のCMがあった。

☆おいしそうなお酒とお刺身などを交互に映し「菊正を飲むとうまいものが食べたくなる」「うまいものを食べると菊正が飲みたくなる」と落ち着いた男性のナレーションが入り、「〽︎や〜っぱり〜俺は〜〜菊正〜宗〜」と、なぜか女性歌手がド演歌調で唄ってCMは終る。

☆オトナになったある日、YちゃんKちゃん夫妻のお宅で愉しく雑談をくり広げていたとき、Yちゃんが「菊正ジャンキー」という言葉を口にした。私は「菊正」という単語も「ジャンキー」という単語も知っていたが、これらふたつを連結させるという発想は持っていなかったので仰天し、笑いに笑った。息が止まりそうだった。申し遅れたが、私は笑い死にするタイプである。

☆菊正ジャンキーとは「菊正を飲むとうまいものが食べたくなる」「うまいものを食べると菊正が飲みたくなる」「菊正を飲むとうまいものが食べたくなる」「うまいものを食べると菊正が飲みたくなる」という連鎖から逃れられなくなることをいうのだとYちゃんから教わった。同席していた友人たちはみんな知っていて笑いもしなかった。

☆それから十年ほど経った夏の夜、私は一人暮らしの部屋で音楽を聴いていた。親切な友人I君が貸してくれた初めて聴くレディオヘッドのCDだった。何度も通して聴くうち気に入りの曲が見つかる。聴く順番も重要で、この曲を聴くと次にあの曲が聴きたくなり、次はこれ、その次はこれ、と4曲ほどを延々くりかえし、止まらなくなってしまった。「このままいけば今夜は眠れないのではないか。」と不安に陥った瞬間、私の腦裡を突然よぎった「菊正ジャンキー」という言葉。

「そうか、これか!」と一人で納得し、長いことのたうちまわっておなかがよじれるほどげらげら笑っていた。またしても息が止まりそうだった。薄い壁ひとつ挟んだ隣室の住人はなんの騒ぎと思っただろう。警察に通報されなくてほんとによかった。

あなたと私の境界線

☆「俺、気持いい=お前、気持いい」という破壊的な誤解がこの世にはある。

☆そのおかげで、私は性交で汗をかいたことがなかった。相手は海のような大汗をかいているが、私の躯は冷たく、寒いくらいが普通で、それに気づいた相手は不思議がった。早く終らないかと時計を眺めて退屈している女が汗などかくはずもない。

みなさん、見事に自慰のような性交をくり広げていた。ご自分の性慾に夢中で、まさか私が退屈しているとは夢にも思わなかっただろう。人類のすけべ心に落ち着きを求めても無駄だし、適当に相手に合わせて下手な芝居をしていた私もいけなかったのだとは思う。結局どうでもよかったのだ、性交など疲労を生むお遊戯でしかなかったのだから。

お遊戯がやっと終ったと思ったら今度は「いった? ねえ、いった?」というバカバカしい質問を何度もされてうんざりする。それなのに何度も交わる私がわるかったのだ。人間の腕まくら目当てに性交などしなければよかった、ただそれだけの話だ。若気の至りと軽蔑していただきたい。

☆自分と他人を区別するのは簡単そうでむつかしい。全世界が自分であるかのように感じるおめでたいひとも中にはいるかもしれない。自分のものは自分のもの、彼のものも彼女のものも、きみのものもあなたのものもお前のものも自分のもの。そして自分がそんなふうに感じているとはきっと思っていない、そういう迷惑なひとだ。

☆ある時期から私は自分と他人との間に太くて濃い線を引くのに必死だ。これは自分に課した義務である。相手が親しい友達でも、いや、親しければ親しいほど、太くて濃い線を必死で引く。何なら段差もつけたい。この境目はとにかく必要だ。

☆成長の段階で迷惑なオトナたちと接してきたためか、私はこの線引きには非常にうるさい。親切な顔で迷惑なことをしてくれるひとが大嫌いだから、自分もそうならないよう必死なのだ。ちゃんとできていればよいのだが。

かわいそうだから可愛い、という怖くて迷惑な話

☆ひとのかわいそうな様子を見て「可愛い」と喜ぶ性質をもつひとは非常に困ったひとである。

☆父がそういうひとだった。まだ私が幼かったころ、たびたび高熱にうなされる私の顔をのぞきこんでは「かわいそうに…。」とさもうれしそうに言う父の顔に困惑したものだった。いくらコドモでもその表情でその言葉は言わないだろうと気がつく。

私が傷を作ったと母から聞けば「見せて、見せて、見せて、見せて。」と笑顔でしつこく迫り来る。彼は傷の内側を見たいのだ。嫌だと言えば何をされるかわからない恐怖から無言でうつむいていると、コドモのやわ肌をうれしそうに鷲づかみにし、せっかく閉じかけた小さな傷を開いてしまう。痛くて怖くてとても迷惑だった。

☆父は優しい少年だった。家族のセーターを編む毛糸を作るため、父の家では羊を何頭か飼っていた。一頭の仔羊を親から離したある夜、仔羊は淋しげに泣き続けたという。その声があまりにもかわいそうで聞いていられなくなった父は寝床を抜け出すと羊小屋へ忍んで行き、泣く仔羊をバスタオルでくるんで一晩じゅう抱いて過ごしたそうだ。抱っこされた仔羊はおとなしく眠った。なかなかできることではないと思う。

☆優しかった少年は、なぜ鬼畜な父親になったのだろうか。

☆現在の父は年を取り、不治の病にかかったせいか人生の終りを考え、弱気になり枯れている。それが功を奏してか、相変らず口数は多いが話しやすい親切なひとになった。まるで鬼畜時代がなかったかのようである。ただ、鬼畜時代の反省や後悔はなさそうだ。

両親には友人が一人もなく、親しい訪問者はほとんど私だけで、行けば必ず歓迎してくれるが、私はむかしの両親とは別のひとたちだと思って接している。多少の警戒心とともに。

思春期をぶっとばせ

☆「だって将来、油まみれで働くの、いやだもん。」

東京の有名大学を受験しようとしていたらしい上級生があるときこう言った。町でいちばんの進学校に通っていたハンサムな彼は、もともと賢いうえに予備校通いもして家でもたくさん勉強していたのだろう。なぜそんなにたくさん勉強するのか、彼に尋ねてみたところ、冒頭の言葉が返ってきたのだった。目の前の少年がオトナになった自分をきちんと想像していることに、私は驚きを禁じ得なかった。

☆いまにして思えば、彼は必死で自分の未来を作ろうとし、そこへたどり着くための努力を惜しまなかったのだとわかる。生きてゆくには何らかの形で勝ち上がらなければならず、勝ち上がる手段として彼はまず勉強を選んだのだったと。そうして彼はまず優等生になった。しかしこんなことは現役の中学生にでもわかる当たり前のことなのだろうとも思う現在の私だ。

☆いっぽう同じころ私が漠然と思い描いた未来はといえば、30歳になる前に車で単独事故を起こし即死することだけだった。泥酔して時速100キロで立ち木に激突することだけが十代のその日その日を生きる希望だった。未来など想像しても仕方がない人生で未来を想像することを覚えるわけもない。貧困なるイマヂネエションの源には心当たりが思い切りあるが、まさか自分が生き続けるなどとは夢にも思っていなかった。そういう大馬鹿者がだらだらと無為に長生きをした結果、現在は病気持ちの中途半端なおばあさん、すなわち粗大ごみというわけだ。これは悪夢でしかない。

この世に生まれてはならないひとというのもいるのである。

☆いまごろ彼は毎日々々スーツを着て、手堅い会社のちょっとした重役にでも納まって、女房コドモに「かっこいい!」とはやし立てられながら少年時代から得意だったギターで親父バンドでも結成し、高価な楽器でエリック・クラプトンなんぞ律儀にコピーしているにちがいない。いや、そう思いたい。終身雇用で年功序列の出世街道をまっしぐら。それが、彼が思い描いた未来だったはずだからだ。

こんにちわ、シネマ倶楽部

☆のちに「遊興団体」(笑)と化したシネマ倶楽部は、自主映画の監督Kちゃんが作った、もともとは映画を作るための集団だった。

☆二十歳そこそこの私が某バンド(もちろん無名)に在籍したとき、とあるハコによく出入りしていた。Kちゃんはそのハコのスタッフだった。知り合いではなかったがお互いの存在は知っていたと思う。

☆当時、なぜか私は自分と似た髪型の人を探していた。同類や仲間を求めていたのかもしれない。しかしどこにもいなかった。バブルの時代にマーク・ボランのようなカーリーヘアーの人間は絶滅していたのだろうか。

☆そこに流星のごとく現れたのがカーリーヘアーのKちゃんだった。おまけに彼は夢のような美しい容貌の持ち主だった。

☆ハコの仕事でチケットをもいでいる彼を物陰からじいっと見たことがあった。出歯亀している私の頭のなかは空白である。人ひとりの頭をパーにさせるほどの美しさだ。絶対にお近付きになろう、と心に誓った夜だった。

☆冬の午後、ステンシルしたり焼いたり切ったり貼ったりして自分のバンドのライヴのポスターを作り、ハコの通路に貼ってくれるようわざわざ一人で頼みに行った。もちろんお目当てはKちゃんである。

行ってみるとハコの事務室からなにやら、カチャッ、カチャッ、と間を置いた変な音が聞えてくる。ドアが開いていたのでそうっとのぞいてみると、机に向うKちゃんの後ろ姿があった。が、豊かな巻き毛で手元は見えない。「あのー…。」と声をかけると、「あ〝。」とかなんとか言って振り向いた彼の手元にはワープロがあり、例の間を置いたカチャッ、カチャッという音はタイピングの音であることがわかった。

☆彼は私がいつも作るポスターやらチラシやらをまとめて褒めてくれたうえ、彼がこのハコで催す上映会のチケットを4枚、バンドのメンバーの分までくれた。紫色のチケットには黒インクでジミヘンが印刷されていた。

☆これがKちゃんと私との(少なくとも私にとっては)運命的な出会いである。二人とも、まだ鼻血が吹き出るほど若かった。