七夕とお盆の思ひ出
☆北海道はほとんどが旧暦で七夕祭りをする。そのすぐあとにお盆がきて、田舎暮らしだったコドモのころは妙に浮かれて過ごしたものだった。
☆とある七夕には母といっしょに色紙を切ったり貼ったりしてお飾りを作り、庭に立てた柳の枝に飾り付けたものだった。竹が生えていないので柳を使うのである。
後日、父が七夕飾りを車に積み込むと、助手席に幼い私を乗せ港の向こうあたりまで走ってゆく。と、車を路肩に寄せて停め、唐突に七夕飾りを海に放り込み「七夕さんに『ばいばーい』って。」とやけに明るく言う。
「七夕さん」に「ばいばい」を言っても「七夕さん」は返事をしてくれないんだけどなあ……と困惑しつつもオトナの夢を壊さないよう気づかって、私は小さな声で「ばいばい」と言い、少しだけ手を振って七夕さんとお別れした。
けっきょく、それが私と七夕さんとの永遠のお別れになってしまった。
☆祖父母の家には古くて小さな黒塗りの仏壇があった。
これまたとあるお盆、娯楽の殿堂・祖母が楽しいことをさせてくれた。
蛍光色のピンクや緑の、空っぽの最中のようなものに紙テープが付いたもの(当地では現在も「つるし」という名で売られている)を仏壇に飾るのだという。
私は祖母といっしょに紙テープの部分をマッチ棒に巻きつけて、仏壇の前面上部のすきまにたくさん刺してぶらぶらとぶら下げた。それはそれは楽しい作業だった。
さらに祖母はきゅうりと茄子に四本脚をつけて馬と牛を作り、仏壇の台、お鈴と同じ段に並べた。それは私をひどくトリップさせた(もちろん素面)。
楽しかったお盆が済むと、とある昼間、祖母は私を連れて浜へ行き、波打ち際にしゃがみこんできゅうりの馬と茄子の牛を放流した。コドモだった私は、馬と牛のうしろ姿を見送りながらなんだか淋しい気持になった。
☆私の家の敷地内に、近所の人が「三ツ岩(みついわ)」と呼ぶそこそこ大きな岩があった。
またまたとあるお盆のこと、どんより曇った午後、母が楕円形の大きなお皿に果物などのお供物をたくさん乗せて三ツ岩の裏手に向かった。私も連れて行ってもらえたということは、お供物の大皿を持つお手伝いをしていたのかもしれない。
岩の裏に回ると、突然景色が開けた。そこはちょっとした崖で、見渡すかぎりの海岸だった。人っ子一人いない。
初めて見る私はあっけにとられて眺めていたが、おそらく母に促され、我に返った。
目の前には古くて小さなお墓が二基あって、お供物はこれらのお墓のためだった。
私と母とは、それぞれのお墓にお供物を置いたのだと思う。
オトナになってから聞いた話によると、二つのお墓はその土地の持ち主だった人のもので、中はお骨など入っておらず空っぽだったらしい。
当時は日常生活のすぐ裏にこんな非日常が潜んでいたのかと思うとどうしようもなくトリッピーな気分で、いつものように灰色の空の色でハイになってしまったのだった。
☆その後、いまの田舎町で暮らすようになってからは、やはり祖父母の家でお盆のトリッピーな雰囲気を楽しんだ。
電気でまわる廻り燈籠、カセットテエプの般若心経(永平寺!)、慣れ親しんだ仏壇に飾られた落雁などのお供物(あとで私のおやつになる)、コドモたちに配られるアイスクリームやみぞれ、冷えたプリンスメロン、白い部分の多いスイカ、冷たい麦茶、騒がしいばかりでうっとうしいことこの上ないいとこたち、熱い空気をかきまわす扇風機、天然素材でなく青いプラスティックのすだれがかかった窓等々々々。
記憶の中の祖父母はいまでも元気だ。
☆お墓参りに出かける時期になってもならなくても思い出す幼い日々の八月の記憶は、私にとってはいまもって強烈であり重要なのである。