お葬式もお墓も仏壇もぼんさんも

☆私が死んだら適当に焼いて、残った骨はごみとして捨ててもらえればありがたい。

もしもそれが法律上の問題でかなわなければ、手間をとらせて申し訳ないが、骨を粉砕して道路でも空き地でも道ばたでも川でも、とにかくそこらへんに無造作にばらまいてくれればよい。トイレに流してもらっても別段かまわないし、花咲かじいさんごっこに使ってもらってもけっこうだ。

しかしこれも法律に触れるならどうすればいいのか。骨壺に詰めこんでお墓にインしかないのだろうか。まあ、死んだら死ぬだけだが、自分が生きた痕跡はできるだけ残したくないのだ。

☆私が死んだら、生前関係のあったこの世のひとたちには私のことなどきれいさっぱり忘れてほしい。身近なひとが死ぬと衝撃を受けたり悲しんだりするから、はじめからいなかったひとのように思われたい。赤の他人が、ネット上にある私の渾身の音楽をたまに再生したり、私以外は誰も見ないこのへっぽこブログを稀に利用すれば幸いだ。

☆私は権力者ではないので巨大な墳墓などは望まない。私という死人は忘れ去られればよい。死後、生きているひとの手をわずらわせるのはいけないことだと思う。死体の始末だって、運んだり焼いたりばらまいたりしてもらう手間を考えると申し訳なさでいっぱいだ。役所の手続きなどもややこしい。とはいえ鳥葬でさえ人手がかかる。可能であれば人目につかないところで野垂れ死にするなど遺体が発見されない方法が最良だが、いまの世の中、それは困難だろう。ここは厳冬の北国なので真冬の行き倒れという手があり、これが理想に近い形なのではなかろうか。現実に、春になるとパチンコ屋の駐車場や神社の境内で発見された凍死体のニュースが報じられることもある。

☆人間の「始末」はどうしてこうまでむつかしいうえに面倒くさいのか。やはり生まれないのがいちばんだ。