老人と犬

 

☆この町に住み始めたころのこと、午後四時前後だったろうか、ジャージを着てチロリアンハットのような帽子をかぶったおじいさんが毎日のように家の前の道路を通りすぎていった。

 

おじいさんは小さめの歩幅でゆっくりと歩いた。あまり脚がよくないらしい。おじいさんの少し先には、もつれたモップのような黒い雑種の小型犬がいた。リードはないが、おじいさんと一定の距離を保って、あまり道草も食わず吠えもせずとことこ歩く。一種のご近所名物だったはずのこのコンビが私の日常の風景になるのに時間はかからなかった。

 

☆ある日の午後、小学校からの帰り道、家の近くの交差点にさしかかると、おじいさんが惚けたような表情で立ち尽くしていた。会釈すらしたことがない、一方的に知っているだけのおじいさんではあるが、どう見ても様子がおかしい、どうしたのだろうと胸騒ぎがした。

 

目の前の信号は赤、行き交う車、白い横断歩道。私は気がついてしまった!

 

おじいさんの視線の先には、黒くてもつれたモップの犬が横たわっていた。横断歩道に倒れて動かなくなった相棒。

 

驚きのあまり、言葉が蒸発した。

 

やがて信号が青に変った。道を渡るのはためらわれたが、モップの犬からなるべく離れて歩いた。

 

いつも元気よく歩いていた生き物が微動だにしないという現実に追いつけなかった。

 

おじいさんにも近寄らないように気をつけた。ちらりと見ると、おじいさんの表情はさっきのまま、口をぽかんと開けて、目は一点を見つめていた。

 

よそのおじいさんと犬の悲劇などひとごとであるはずなのに、寂しさや悲しさや得体の知れない罪悪感を瞬時に背負ってしまい胸が痛んだ。背中も足取りもひどく重かった。

 

翌朝、登校するとき同じ交差点を歩かねばならなかったが、横断歩道はまるで何事もなかったかのようだった。もちろん、おじいさんもいない。朝っぱらから悲しかった。

 

☆その後、おじいさんを見かけることはなかった。消息も知らない。しかし、あの日から現在まで、断続的におじいさんとモップの犬のことを考えている。

 

当時は犬のごわごわにもつれた毛を見て、おじいさんは犬のことなどどうでもよいのだ、だからブラシで手入れしてやらないのだと思っていた。

 

でもだんだんと、もしかしたらおじいさんは一人暮らしだったのかもしれない、昔の男の人だから不調法で犬の毛の手入れなど思いもよらなかっただけで、じつは可愛がっていたのかもしれない、毎日の散歩も犬のためにしていたのかもしれないなどと想像するようになった。

 

想像すればするほど、新しい悲しみや寂しさがわき上がってくるが、想像せずにはいられない。その理由はわからない。

 

ただ、罪悪感はなくなった。あのとき私にできることは何一つなかったと理解したからだ。

 

☆今夜は花火大会だった。帰りの夜道、にぎやかな人混みを歩きながら突然あのおじいさんと黒いもつれたモップの犬のことを久しぶりに思い出したのだった。人の記憶とは不思議なものである。

 

☆あの交差点の悲劇的な光景は一生忘れられないだろう。それと同時に私の頭の中では、おじいさんと黒いもつれたモップの犬が午後の日を浴びながら楽しげに散歩をしている。