性別「・」

☆小学校高学年のころのこと。コドモの書類になぜかあった「男・女」の「・」や、「男 女」の「 」に丸を付けつづけたあの日々は何だったのかと思う。

まず性別が女というのが気に入らなかった。しかし男になりたいわけでもない。「男と女の中間」や「両方」を望んだわけでもなく、人間でいること、生きていることに対して抵抗が生まれた時期だったのではないか。両親はなぜ私を製造してしまったのか、と考えるくらいには私は疲れていた。

小学生の日々は気だるい。教師や親の命令に従うよう毎日々々調教され、その一方で学校、あるいはオトナが決めた範囲内で自発的であることも求められる。まずこの時点で頭が大混乱を起こす。またコドモ同士でもいろいろある。私の場合、基本的にのけ者で、そのせいか靴がよくなくなった。真冬の雪の中、上履きで帰宅したこともある。いまでも、知らない人を見たら泥棒と思う癖が抜けないというか、人を見て泥棒と思うことになんの抵抗もない。ひとは盗むものだ。

家に帰ればヒステリックな両親が気まぐれに癇癪を起こしはしないかと常に顔色をうかがわねばならなかったし、それまでシェルタアの役割を果たしていた祖父母の家は、いとこ四人に占拠され騒々しいだけの場所に成り果ててしまっていた。コドモのころからお金と「文化」と居場所には縁がなかった。

☆「・」や「 」に丸印をつけ続けたのは、生まれてきたのが運の尽き、とうすうす感じ始めたころだったのだろう。

追憶の電気猫

☆電気猫という名の小さなライヴハウスに週末ごとに通っていた時期がある。中年のころだ。苦手な夜道の一人歩きをしてでも通いたかった場所だった。

☆小さなフロアにでかい音。演者の執念がいろいろな形で炸裂して熱気を生むのが興味深い。音楽的にストライクではないバンドを気に入ることも面白かった。そういうバンドの自家製CD-Rを買ってほくほくしながら鞄にしまいこむのも楽しかった。

通ううちに顔見知りも出来、貴重な雑談をすることもあった。いわゆる宅録で自分の音楽を作ることができたのは、電気猫に通ったおかげでもあると考えている。なぜなら、電気猫は私にとっていつでも「音楽の現場」だったからだ。現場の熱気を帯びた躯で部屋に帰ると、おもちゃのようなマシンで一心不乱に作業できたのだ。

ライヴハウスはほかにもあるが、愛着があったのは電気猫だけである。夏は暑く冬は寒いが、どうにもこうにも好きだった。

☆その電気猫もなくなって2年以上になるだろうか。建物は残っていたので、淋しい気分になるとわかっていても、ときどき行ってはドアの写真など撮っていた。

☆町には知人の経営するまだ行っていないライヴハウスが一軒あり、いつか行ってみたいと思ってはいるが、現時点では体力的に無理がある。もしかしたら、もう「現場」には戻れないのかもしれない。

☆むかしむかし、友達のKちゃんが、バンド活動を引退し宅録もしていない私を「音楽のひと」だと言い張ったのが不思議だったのだが、いまならわかる気がする。やはりKちゃんは慧眼だった。私は死ぬまで音楽のひとでありたい。

言葉の意味が失われてゆく

☆「気持わるい」あるいは「きもい」という言葉の気持わるさに気づいたのは中学生のころだった。

☆濫用され消費されることによって意味の失われた言葉がどんどん増えている。それらを耳にすると気分がわるくなる。口にすると変な味がしそうな気がする。世の中にはそういう言葉があふれているので、テレビを見ても、人混みでも、たいがい気持わるくなることができる。逃げ場は少ない。

☆自分が女子高生のころから未だに2名以上の女子高生は鬼門だ。彼女たちは集団になるとなぜあんなに本物のおばさんのようなしゃべり方をするのか。早口の大きな声で無難な会話を途切れることなく続ける彼女たちの図々しさを私は恐れる。

☆私もおば(あ)さんだが2名以上のおば(あ)さんも嫌だ。女子高生同様、ヴァイタリティばかりが変にみなぎる感じが嫌なのかもしれない。ヴァイタリティとはある種の図々しさのことのようだ。

生きるということは図々しくあるということで、生きてゆくならばおそらく当たり前のことなのだ。人間とはいろいろな生物や植物を喰い散らかさねば生きてゆけない、図々しい存在なのだと思う今日このごろである。

☆残された時間は死人のごとく奥ゆかしく過ごしたいと思うが、生きている以上それはかなわないだろう。私は私で女子高生やおば(あ)さんとはまた違う種類の図々しさで死ぬまでの時間を過ごすのだ。

☆せめて言葉を消費せず、消費され尽くし意味を失った言葉とは可能なかぎり距離を置く余生を送りたい。

T. REXと私

☆あれは18歳の夏のこと、私はT.REXの『THE SLIDER』のレコードを手に入れた。Janis Joplinの『Pearl』もいっしょに買った。

☆家に帰ってカセットテエプに録音し、くり返し聴いた。ジャニスのほうはすぐに好きになったが、T.REXのほうは何度聴いてもピンとこない。これは私に問題があるに違いないと考え、来る日も来る日も『THE SLIDER』を聴き続けた。そうしてその夏は終った。

☆秋が来てもまだしつこく聴いていた。どうしてもこのアルバムを好きになりたかった。あの魅惑的なジャケット、それまで聴いたこともなかった種類の不思議な雰囲気の音楽、知らない世界の音楽。でも好きになりたかったほんとうの理由はわからない。

どうしても好きになりたいのに、つかみどころをつかみ損ねてばかりいるような気分だった。

☆そんな18歳の秋、ある日ふらりとレコードやさんへ立ち寄り、今度は『Electric Warrior』を買った。別の方向から攻めてみるつもりだったのもあるが、ジャケットに購買意欲をそそられた結果でもある。

☆さて、またカセットテエプに録音し、くり返し聴く。『THE SLIDER』よりはこの『Electric Warrior』のほうが多少取っつきがよかったので、さらに聴きまくった。早く音に触れたい一心だったが、やはりなかなか触れさせてはもらえない。音と私との間にある膜が邪魔なのだ。

☆もどかしい日々はぜんぶで二年近く続いた。あるとき突然、ほんとうに突然、邪魔な膜が消え、気がつけば私は音楽の中に引きずり込まれていた。人生でいちばんの幸運だった。

☆晴れて私はT.REXのレコードのコレクタアになり、すべてのアルバムと何枚ものシングル盤をこつこつと買い集め、気づけば髪の毛もマーク・ボランのようになっていた。

☆あれから何十年たったろう。当時のコレクションはすべて失われてしまったが、T.REXに限らず、若いころ野獣のごとく聴き狂った音楽のすべては、いまも私の当たり前で特別な宝石だ。

生まれてきたのが運の尽き

☆この世に生まれてきたことに関しては、たいへんな貧乏くじを引いてしまったと後悔している。

製造元に対しては「なんてことしてくれたんだ」の一言に尽きる。もちろん私は子孫など製造しなかった。「人生」というものをお勧めできないし、自分の面倒も見きれないのに他者の面倒を見ることには無理があるし、自分の遺伝子など残さず完全に滅びたい。サンドバッグとして生まれ、ごみとして死ぬのである。

☆愉しいことも美しいものも、もうぜんぶ諦めるからさっさと首でも括り人生を終了したい。この倦怠感から逃れる方法はほかにないだろう。ただの想像力不足かもしれないが、倦怠感から逃れることさえできればそれでいい。これほどの倦怠感を抱えていることは、おそらく誰も理解していないだろう。自分のことが大事で他人が二の次なのはみんな同じだ。仕方がない。伴侶はいるが、彼は自分の話をするのは好きでも私の話を聞くことはあまり好きではないようだし、そもそも家ではあまり口をきかない。話したいことを話すだけのひとだ。よって「普通」の会話をしようと思えばいちいち外へ出かけねばならない。が、外出もままならないこの倦怠感。

☆倦怠感が追い風参考記録的に強まるときがある。基本的に毎日首を括るのをがまんしているが、いつまでがまんすればいいのか。

倦怠感にさいなまれるほどに死が魅力を増してゆく。まあ、大掃除とか「断捨離」みたいなものなのだが。

とにかく、生まれてきたのが運の尽きである。

背中のチャックの話

☆ひとの背中には架空のチャックがあるとつねづね考えている。 ☆チャックを開けると3歳の自分や4歳の自分や5歳の自分、小さい自分が、オトナの形をした着ぐるみの体からわらわらと出てくるのだ。それら各年齢の自分をぜんぶ足すと現在の年齢になる仕掛けである。3歳+4歳+5歳+5歳+4歳+3歳+2歳+3歳+4歳+5歳+6歳+5歳+4歳=53歳といった具合。ブレンド具合もまたひとそれぞれで、人間のできた幼稚園児のようなひともいれば、アホアホな高校生のようなひともいる。私見では前者は後者よりもしっかり者である。 ☆また、チャックの開きやすいひとと開きづらいひととがいて、開きづらいひとはチャックが途中で引っかかるのではないかと考えている。チャックが不調なのである。個人的にはチャックのすべりのよい人が好きだ。思考回路が面白く、嘘がきわめて少ないことが多いからだ。 ☆かくいう私の背中のチャックは常に半開きである。まあ、酔っぱらいの社会の窓のようなもので、いつの間にか開いているのである。これはこれで修理に出したほうがよいのかもしれないが、ゆるいチャックは面白くもあるので修理に出すのはもったいない気もする。ただ、背中のチャックなどないつまらない人間のほうが親兄弟や伴侶には迷惑をかけず歓迎されるだろう。いつまでもおえかきや音楽を作るのが好きな人間は歓迎してくれるひとしか歓迎してくれないものだ。一般的に歓迎されるのはお金を稼ぐひと、それだけだ。

「うち」のひと

☆世間のひとがよく使う言い回し、うちの学校、うちの先生、うちの会社、うちのお母さん、等々々々。 「うち」とは、自分が暮らす、或いは暮らした、または生まれた場所(都道府県、市町村など)、親兄弟、親戚、勤め先、学校など自分が所属する何らかの集団である場合が多いようだ。 そんなにどこかに「所属」したいものだろうか。そもそも所属すべきなのかどうか。所属すれば必ず規則に縛られるが、わざわざ縛られたいということなのか。 もしかしたら所属することによって得られる「何か」があって、それに救われてでもいるのだろうか。だとしたら何にどう救われているのか。果たしてそれはほんとに救いなのかどうか。 「そこ」には「囲いの内と外」とがあり、それが生み出すはずの排他性を考えると、ないほうがいい「何か」のような気もする。 「囲いの内と外」以外の場所はないものか。中途半端なグレエゾオンは存在し得ないのか。

☆「囲いの内と外」=社会であれば、逃げ場はない。内と外との二択のみ。なにしろ死ぬまで逃れられないのが「社会」という場所だ。

☆私は常に「囲いの外」にいるが、同時に「帰属意識による排他性」という落とし穴にもちょくちょく落ちていた。いまも囲いの外にいながら頭は落とし穴の中かもしれない。怪談話よりも怖い話である。

☆九歳のとき、私は所属する場所を失った。それ以来、私に「ホーム」はない。故郷から無理やり引きはがされる痛みは忘れ難く、つねに生傷のままだ。

出血と流血

☆「出血」は止血しなくてはいけないもので、処置したあとは安静にしたりもする。周りの人は大なり小なり心配する。

☆それとは逆に「流血」にはどこか楽しそうなニュワンスがつきまとう。プロレスでは血が流れると会場のファンは心配するどころか逆に大いに盛り上がり、血を流したままでの大乱闘が繰り広げられる。プロレスラーの止血は一体どうなっているのだろう。バイキンが入らないよう消毒したり、傷口をふさぐ手当てなどをしているのだろうか。流血はプロレスの華なのかもしれないが、いつも心配になる。屈強な大男がバイキンと戦って負けることだって考えられるではないか。

☆どちらも「血が出ている」状態なわけだが、たいへんな違いである。後者は、よい子は真似してはいけない、というか、真似できないからだいじょうぶだが。

☆楽しくなかった私の流血体験ふたつ。

☆生まれて初めて爪を長く伸ばした十代のある朝、寝坊の予防にわざと遠くに置いた目覚まし時計を止めようとベッドから這い出たとき、右手の親指の赤い爪で左手の甲の親指の下あたりをざっくりとえぐってしまい血が流れた。

☆徹夜明けで洋服を作っていたら、裁ちばさみで、これまた左手の甲の親指の下あたりを切った。パチン!とものすごく大きな音が響くと同時に血が流れた。

☆出血も流血もしないに超したことはない。といってもプロレスを否定しているわけではなく、むしろプロレスは好きらしいので誤解なきようお願いします。爪の長い方は御用心を。徹夜明けの洋裁士に幸あれ。

黄昏どきの黄色

☆15年ほど前に見た、夕刻の大田黒公園のイチョウ並木は忘れられない。時間の流れを遅らすはたらきがあるのかと思うくらい、黄昏どきの黄色は魔法のようにそこだけ明るく見せるのだった。

☆小さいころ、私は祖父の晩酌に同席する習慣があった。祖父は酔うと機嫌がよくなるためか口数が多くなり、いろいろな面白い話を聞くことができたし、またおつまみのご相伴にあずかる楽しみもあったからである。そうして覚えた味が、家では見たこともない缶詰のホワイトアスパラガスやコンビーフ、プロセスチーズ、薪ストーブで焼いたにんにくなどだ。「栄養があるから食べなさい。嫌だったら残しなさい。」と、祖父が勧めてくれる小皿を楽しみにしていた。

ある夜、祖父が一杯やりながら問わず語りに「あれはね、宵待草というんだよ。」と言った。もう話の流れは覚えていないが、当時、祖父母は私の家からごく近くにあった公営住宅に住んでおり、あたりにマツヨイグサがたくさん咲くような荒れ地が広がる場所だった。明かりを灯したようなマツヨイグサの黄色い花に、コドモながらに少しトリップしていたことを覚えている。「宵待草というんだよ。」と言った祖父の声とともに。

☆今でも私はこの花が好きで、歩道のさびれた植え込みなどに発見するとついうれしくなる。あのときの祖父の声と蛍光灯の灯りを思いだし、人知れずしみじみするのである。

☆祖父も地球を去り、私も当時の祖父の年齢に近づいているが、あの花は変らず夕暮れ時を黄色く照らしている。

性根の醜い男は

☆老人になったからといってよいことは何ひとつない。

唯一、性的な目で見られずに済むようになったことが救いである。もう通りすがりのAVのスカウトに「暇だからセックスしよう」と誘われずに済む。

☆なにしろやつらは暗がりで脚を見るのだ。中肉で短いO脚の素足を。ということは、脚の形がどうこうでなく、脚を出しているか否かが問題だったのではないかといまにして思う。脚を見るやつらは「今宵、一発やれそうか?」と物色していただけなのかもしれない。旅行客が行き交う場所に住んでいたこともあって、ケツが軽そうでバカそうな単独行動の女を探して簡単にやり逃げしたい男は少なくなかったろう。何度か尾行もされて、わざわざ遠回りして巻いたり、頭にきて喧嘩を売ったこともあった。だが私は最終選考(=顔の審査)で落されることがほとんどだった。顔が醜いのは嘆かわしいが、こういう不合格には感謝せざるを得ない。醜い私でもこうなのだから、姿かたちのよい優しげな女のひとはどんなに大変な思いをしていることかと背筋が寒くなる。じっさい、自宅前でしつこく誘われて逃げるのに苦労した話を聞いたことがあるが、外出するだけでそんな目に遭うとは、ひどい話である。

☆私の脚をじろじろ見たバカなやつらは、ひどく醜い外見の男ばかりだった。おまけに後ろめたそうな卑しい目つきをしていた。顔は醜いが堂々と脚を出して歩く私は、内面まで醜い彼らにふさわしかったのかもしれない。

はじめに

☆ほんとうは別の形でのブログを計画していたのだが、私がぼんくらなせいで単純な作文ブログにすることにした。それでも晩年のたしなみとして遺言を遺そうと思う。

☆私はまだ本格的な老人ではないが、老年期の始まりを感じている。ごく若いころから常に死を意識していたくせに、うっかり死に損ない、未だにだらしなく生きている始末。音楽、読書、映画、美術に夢中になるうち死に損なってしまったのだ。人間に馬齢を重ねさせてしまう力をもったこれらは非常に危険なものなのかもしれない。なにしろ泥酔して車で単独事故を起こし二十代でさっさと死ぬ予定だったのである。

☆或るバンドで下手な唄を唄っていた二十一、二歳のころ、自主映画の監督・Kちゃんと出会ったことから生まれて初めて友人に恵まれ、ありがたくもことあるごとに集いの席に誘ってもらい、Kちゃんの解説付きでさまざまな映画を鑑賞し、絶対によそでは話せない話題での雑談に次ぐ雑談、隔月の同人誌にまで混ぜてもらい表紙・裏表紙も担当した。花見だハロウィンだクリスマスだと宴も多々あった。

まずい。これでは死ぬ暇がない。しかしあれは素敵に愉快な日々だった。

☆写真を撮りすぎて死に損ない、ライヴハウス・電気猫に通って死に損ない、音楽を作って死に損なった。

ほんとはすぐにでも死んだほうがいいのだが、伴侶を残して軽々しく死ぬわけにもゆかない。これでまた一つ死に損なった。

死に損なったついでに、ブログにいろいろと作文を遺しておこうと思う。