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祖父の酒飲み夜話

☆下っぱの歩兵として旧満州に入った祖父は、来る日も来る日も背嚢(はいのう)を背負い一日じゅう歩かせられ、足の裏に水ぶくれができるとヨードチンキをしませた糸を針に通し水ぶくれを刺し貫かれる日々に「軍隊は駄目だ。」とつくづく思ったという。

帰国後、空軍の試験も受けてみたが祖父には不向きであった。そこで二度と召集されないよう必死で勉強し、一発合格で警察官になったのだった。じっさいに六法全書を1ペエヂずつ食べて暗記したそうだ。(全ペエヂ食べたかどうかはわからない)

 

☆祖父が戦争のときに見たという「支那」の農民のこと。

・朝はみんなで畑の端に並んで排泄を済ませる。

・顔を洗うときは手を顔に当て、手ではなく顔を動かす(この動作で中国人だとばれたスパイがいたらしい)。

・彼らは大きな急須に柳の葉をびっしり詰め、お茶として飲んでいたという。私は祖父に訊いた。

「んまいの?」

「んまくないさ。」

・放し飼いの豚の捕まえ方。朝、縄で輪っかを作り、そこいらを走り回る豚の首に無理やり引っかけ、あとはひとりのひとが豚に引きずられながら輪っかを少しずつねじり続ける。そうすると夕方には豚の首が絞まるのだという。気の遠くなるような絞め方に祖父は呆れていた。

・祖父が見た「支那」の農民は長ギセルを使っていたという。しかし口にくわえれば長すぎて火皿に手が届かず火を点けられない。火皿に火を点ければ口にくわえられず吸い込むことができない。そんな長ギセルで彼らはいったいどうやって煙草を吸っていたのか。昭和も終りのころに聞いた話だったが、祖父は「あいつら、まだやってるのかなあ。」と心配そうだった。

・大陸の大きな夕日。とにかく夕日が大きかったと話していた。

 

☆大連市に滞在したときは、美しい町並みを歩き、立入りが禁止されていたコンサートホールでオーケストラの演奏をこっそり聴いたりした。

 

スタルヒンのお母さんがこの町の自衛隊界隈を「文化パーン」と呼びかけながらパンを売り歩いていたのをよく見たという。

 

☆祖父が直接見聞きしたわけではないが、この町のいわゆる「英霊の帰還」の話もしていた。

ある夜、戦争中は「師団通り」と呼ばれたメインストリイトから電車通りを抜けて第七師団にいたる道を歩く大人数の兵隊さんの足音を聞き、衛兵が迎えた。激戦の地からの帰還兵だったらしい。挨拶は交わされたが、その後は人っ子一人おらず、まさに「かき消つやうに失せぬ」であったという。当時、地元ではかなり有名な話だったらしい。

 

☆警官時代、まだ新人だった祖父は「仁左衛門殺し」の現場をひとりで夜通し警備するよう任されてしまった。彼はお化けと暗闇が怖いため、一晩じゅうおびえながら障子に血しぶき飛び散る生ま生ましい殺人現場にひとりぽっちで立っていた。さぞかし長い夜だったろう。朝になって大勢の警察官が現れたときには気が抜けたと言っていた。

 

☆これも警官時代のお話。夜、仲間とお酒を飲み泥酔して、オート三輪の荷台にお胡座をかいてうたた寝したまま家まで送ってもらうはずが、急な坂道を走行中、お胡座の体勢のまま転落し、おいてけぼりにされてしまった。しかし眠っていた祖父はそんなことは知らず、道路の真ん中にお胡座をかいて眠り続けた。しばらくして目が覚めると、自分の現在地がわからないことに気づく。終戦前後の東京のこと、夜は真っ暗闇であったが、一つだけ、向こうに赤くて丸い光が見える。目を細めよくよく見ると交番である。仕方がないので祖父は千鳥足で交番へ行きお巡りさんに尋ねた。

「すみません、ここ、どこですか?」

自分だってお巡りさんなのに(笑)。

 

☆これまた警官時代。仮眠中、緊急出動の要請があった。すばやく身支度をしてポールをすべり降り車で出発するのだが、当時はゲートルという厄介なものを脛に巻かねばならず、寝ぼけた祖父は自分の脚をベッドの脚にゲートルで固定してしまい、立ち上がっても動けない。仕方なく急いでやり直し、ポールをすべり降りたときには遠ざかる車の後ろ姿が見えたという。間一髪、惜しかった。

 

☆も一つ、警官時代を。夜勤明けなのか、まだ始発電車も走らない時間に明け方の暗い道をひとり歩いて帰途についていた。とあるガード下にさしかかったところで黒い人影がわらわらと現れ祖父の行く手を阻んだ。即座に人数を確認すると16人。ある犯人の逮捕に祖父が関わったことを逆恨みしてのことだった。1対16。柔道初段の祖父は制服をどろどろに汚しながらどうにかその場をしのいだ。帰宅も大幅に遅くなり、迎えに出た祖母が泥だらけの祖父を見て「どうしたの?!」と驚くと、祖父は「闇討ちだ。」とひとこと答えた。酔った祖父は同じ話を何度もくりかえしたが、この話はたった一度しか聞いていない。それほど怖い思いをしたに違いなかった。

 

☆そんな祖父が、ある事情から警官の職を辞して、とつぜん仲間たちと材木屋を開業した。最終的に祖父は木目を見れば何の木かわかるひとになっていたらしい。

 

☆いつごろのことか、またどの地域でのことかは失念したが、屠殺業者を「イッタ」と呼んでいたと語った。「イッタ」とは「穢多(えた)」の変化だろうか。

 

☆私がまだ幼かったころ、木工場の工場長になってからは土曜の夜はオールナイトで中央公論を読んでいた。

 

☆リタイアしてからは毎日パチンコで負けていたが、「お母さんには内緒だぞ。」とよくおこづかいをくれた。

 

★お酒を飲みながら夜な夜な祖父が語ったことをいくつか思いだして書いてみた。私の記憶ちがいで事実に反することもなかにはあるかもしれない。その際はご指摘いただければ幸いである。

(なにしろ祖父はもうこの世のひとではないので、指摘してもらおうにもかなわないのであった。)