家系病はオカルトの病(笑)

☆私の母は幼少のころエクソシストのお世話になったことがある。普段は食の細い彼女が、食べても食べても強烈な飢えを感じてひたすら食べ続け、その様子を不審に思った彼女の祖母(つまり私の曾祖母)が知り合いのエクソシストのもとへ連れて行ったのだった。

エクソシストは墓石やさんのおばあさんである。行くと、押入れの中に黒くて大きな仏壇がある部屋に通され、母はエクソシストのおばあさんと二人きりになった。「先祖の霊が憑いている。」と判断された母は背中を何かでぽんぽん叩かれるなどお祓いのようなことをいろいろとしてもらい、その結果、食欲はけろりと治まったという。

 

☆母の父、すなわち私の祖父であるが、このひとは極めつきのオカルトであったらしい。戦争中は戦地で、夜、トイレの個室のドアを開けるとその日亡くなった戦友の死の場面がそっくりそのままそこにあった、などと普通の話のように話すので、祖父がオカルトの人であると知ったとき、彼はすでに地球を去っていた。また、非常に臆病な人でもあり、暗い場所とおばけが何より怖かったのだから、どれだけ怖い思いをしたか、想像しただけで気の毒になる。

 

☆その祖父の妻、すなわち私の母方の祖母は、長年オカルトな祖父と暮らすうちヘヴィなオカルトになっていったらしい。夜、祖父と二人で寝ていると天井の蛍光灯がいきなり点灯し、「ああ、消さなくちゃ…。」となかば寝ぼけた祖母がぐずぐずするうちに勝手に明かりが消える、ということは日常茶飯事だったし、朝方、祖母が目を覚ますと、近所の奥さんが枕もとに正座して祖母の顔をじっとのぞきこんでいて、じつは祖父に急用のあったその奥さんが朝いちばんに訪ねてきたり、といったようなこともさほど珍らしくなかったので、私は祖母のほうがオカルト体質なのだと長年誤解していたくらいだ。

 

☆さて私のオカルト度合いだが、若いうちは多少そういう傾向もあった。巻き込まれてやむを得ず行ったいわゆる心霊スポットで、はからずも場を盛り上げてしまうようなこともあった。しかし年を取ってからはオカルトとはめっきり縁遠い。「おばけさん」よりも生きている人間のほうが私を怖がらせるせいかもしれない。いまはせいぜい収入がある前に掌がかゆくなるくらいだ。この現象は少なくとも三代前からこの家系の女に見られる、いわば家系病のようなものであるが、果たしてオカルトといってよいものかどうかはわからない。

若気の至り

☆女子高生のA子ちゃんとB子ちゃんが雑談していて、A子ちゃんがC子ちゃんの兄をさりげなく「アーニー」と称していると、B子ちゃんが「C子ちゃんのお兄ちゃんて外人なの?」と真顔できいたという話をA子ちゃんがしていたのは30年ほど前になる。私がA子ちゃんと会ったのはその一度だけだし、会ったなりゆきももう覚えていない。思えば十代は一期一会の連続であった。

☆十代も後半のころ、ヤンキーのお嬢さん・Mちゃんが「売春」を「スプリング・セール」と勝手に翻訳していた。彼女は「文金高島田」を「きんしんたましらず」と涼しい顔で言ったりもするひとだった。ヤンキー活動が過ぎる彼女と私との接点はあまりなかったが、こういったことは未だに記憶に残っている。

☆中学時代のある日、クラスメエトのM君、S君、Yちゃんと放課後に雑談したことがあった。教室にはほかに誰もいない。M君は一心不乱にミルキーバーを舐めて凶器のように尖らせご満悦だった。そのM君が突然「おえっ!」みたいなことを叫んで、くわえていたミルキーバーを急いで口から出した。ほかの三人は驚いて「どうしたの?!」などと騒いでいると、M君はますます鋭角的になったミルキーバーを示して苦しそうに言った。

「ミルキーバーが扁桃腺に刺さった…。」

彼は扁桃腺肥大だった。私はコドモのころ図鑑で扁桃腺肥大を知って以来、実物を見てみたいと強く願っていた。憧れてすらいた。チャンス到来。懇願してM君のお口の中をのぞかせてもらうことに成功した。立派な扁桃腺肥大であった。S君、YちゃんもついでにM君のお口をのぞきこみ「おお。」と控えめな歓声を上げていた。あの日「あーん」してくれたM君の大きな扁桃腺とM君自身の幸運を祈ってやまない。

カラスの群れと鉄砲撃ち

☆田舎暮らしをしていたコドモのころのこと、自宅の正面からまっすぐ延びる道路の行き止まりに養豚業を営む同級生のY君の家があった。

☆ある日、Y君宅の屋根の上をおびただしい数のカラスがぎゃあぎゃあ鳴きわめきながら飛び回るのが見えた。ときおり変な音も混じってなかなかの大騒ぎである。そばにいた父に「Y君のおじさんはカラスを集めているの?」と訊くと、カラスが多すぎるから散弾銃で撃って殺しているのだといったような答えが返ってきた。たぶんそのあとは例によって散弾銃についての説明が繰り広げられたのだと思われる。

☆もともとY君の父親は近所の牛飼いのOさんと仲がわるかったらしく、大げんかの果てに鉄砲の撃ち合いにまで発展したこともあったという、どうも血の気の多い人物だったようだ。牛飼いのOさんは後に飼っていた牛の角で腹部を突かれ亡くなり、牧場は廃業を余儀なくされた。

☆近所だったせいもありY君の家へは一時期、何度か遊びに行ったことがあったが、二三歳年上の意地悪なお兄さん以外の家族には会った記憶がない。そうこうするうち私はY君の家へは行かなくなっていた。なんだかお友達づきあいに疲れてしまったのだった。

☆あの田舎には鉄砲撃ちが多かったのか、細い丸太を組んだ足場のようなところにカラス除けと称してカラスの屍体がいくつもぶら下げられていたり、猟銃自殺したりしたひともあった。田舎の景色はのどかだが、人間のほうはそうでもなかったらしい。

性的な意味でふざけた田舎の人々

☆まだ田舎に住んでいたころのこと。あるとき、私は居間で上半身裸だった。母に着替えさせられていたようだ。そこにはなぜか父もいた。彼はにやにやした顔で私の左の乳首をつんつんつまみ、「これ何ァに。これ何ァに。」とせかすような口調で言った。母はにやにやした顔で「えっちだねえ、って(言いなさい)。」といつになく楽しげに言った。まだ幼かった私はだまってうつむくしかなかったが、両親はとにかくにやにやしていた。コドモに羞恥心がないと思ってやったことなら愚かにもほどがあるし、羞恥心があるとわかってのことなら悪趣味としか言いようがない。弱者に屈辱を与えては喜ぶ彼らの習慣も理解しがたい。こうして両親への信頼感や敬意といったものは日々少しずつ、しかし確実に蒸発していったのだった。

☆朝食時、母に「今日、するか。するか。」といやらしい笑顔で執拗に訊く父と、固い表情で無言をつらぬく母。ほとんど毎朝のことであった。コドモにはオトナの話は理解できないと思いこんでいた両親の失敗である。あの父のいやらしく楽しげな様子、それとは対照的な母の固い表情がすべてを物語っていた。

保育所に行けば行ったで、ひとつ年下の美少女が、お昼休みの大騒ぎのおゆうぎ室でごく自然に性器を露出し、私に向って「あなたのは、どんなのー? 見せてー。」と言う。私はびっくりして固まってしまった。幸い誰も見ていなかったようだが、不幸なことに私は見てしまった。

☆私の故郷は美しく、コドモ時代は非常にトリッピーで、あの感覚をまた味わってみたいと思う。が、上記のようなことまで再び体験せねばならぬのなら二度とコドモには戻りたくない。あんなことは金輪際御免こうむる。

田舎は性犯罪のパラダイス

☆田舎は性犯罪のパラダイスである。コドモからオトナまで、性別が男でありさえすれば24時間すけべヅラをしていてもとくに問題視されないし、ひとの目を盗んで猥褻で卑劣な行為におよんでも「あいつはすけべ」と噂される程度で済む。あの土地の性的なからかい、あるいは性犯罪の主な対象は幼い女の子ではなかったか。私の故郷の景色はため息が出るほど美しいが、ひとは醜い。

☆私の育った田舎町は少し特殊な環境ではあった。が、とにかく性的な事象が横行していたと思う。なんというか、性に対して貪慾な感じなのだ。娯楽のない田舎では性全般と人間関係のもつれが日常の娯楽だったのかもしれない。

☆まだ小さいころ、自宅前の横断歩道を、バイクにまたがった二人の若い男に「いやあ、いやあ、いやあ、いい女、いい女。」と野太い声でからかわれながら急いで渡ったことがある。田舎だから目撃者もない。助けてくれるひとも、もちろんない。そのとき私は、母の趣味でおぱんつが丸見えのスカアトを着用していた。幼いながらに恐怖と屈辱を味わったのだった。

☆小学二年のときだったか、通っていた珠算教室から何の前触れもなくひと気が消えたことがあった。ノックをしても返事がない。結局、珠算教室の廃止をなぜか私だけが知らされていなかったのだが、何も知らない私はバカ正直に玄関前で待つことにした。待ちくたびれたので玄関の引き戸を背にしゃがみこんでいると、いくつか年上の知らない男の子がひとり、声をかけてきた。はじめは普通にやりとりをしていたが、突然、相手が私の着衣の股間に手を突っ込んだ。私は驚いてすぐさま立ち上がり相手の目を見ると、うすら笑いを浮かべ、なにかひとことふたこと言って去っていった。

私はこういう場面で悲鳴を上げられない人間である。家庭の環境もあり、ひとに対して恐怖心のようなものを持つことも少なくなかった。そういう中で起きた「事件」だった。

このことは、もちろん誰にも話せなかった。初めてひとに話したのは三十歳に近くなったころ、ようやくできた同性の友人数名にであった。友人のひとりによれば、私は狙われやすいタイプのコドモとのことだった。

☆住む場所が変わりオトナになっても「狙われる」日々はずいぶん長く続いた。しかし、どう考えても、いや、考えれば考えるほど、わるいのは「狙う」ひとのほうなのだ。すけべ、死すべし。

阿佐ヶ谷のありん堂のみそ柏はすばらしい

☆そのむかし、阿佐ヶ谷で暮らしたことがある。JR阿佐ヶ谷駅北口を出て左、スターロードという商店街というか飲み屋街のいちばん奥にある和菓子やさんの「ありん堂」がなにより好きだった。いまでもお店で売られていたいろいろなお菓子が腦裡をよぎって困るほどだ。

☆五月のお菓子はなんといっても柏餅、それもみそ柏がよい。お味噌風味の白あんが病みつきになり、毎日のように通ったものだった。お餅と柏の葉がべたべたとくっつくこともなく、ものを食べるのが下手な私にはありがたかった。阿佐ヶ谷を離れてもう十年以上になるが、ありん堂のみそ柏を忘れたことはない。拒食気味の私でも食い意地が張るのだ。

☆東京へは行きたくないが、ありん堂へは行きたいと思う。古びたお店の正面に置かれたガラスの陳列棚の前で、あれもこれもと注文し、おまけに欲張ってみたらし団子の買い食いもしたい。ああ、ありん堂!!

用務員さん24時

☆私が通った保育所には、ひよこ組(3歳児)、りす組(4歳児)、ばんび組(5歳児)、きりん組(6歳児)の各教室、コドモたちが体を張って遊ぶおゆうぎ室、それに用務員さん一家の暮らす部屋があった。用務員さんのお子さん、私よりひとつかふたつ年上の女の子Mちゃんも保育所に通っていた。

☆用務員さんの部屋は廊下に面した小上がり状で、上半分が素通しのガラスの引き戸で区切られただけだし、よく開けっ放しにもされていたから、そこを通りかかると用務員さん一家の暮らしがどうしても目に入ってしまう。家族そろって朝ご飯を食べている場面、保育所や学校へ行く準備をするコドモたちの様子、それを手伝う用務員さんの奥さん。いま思いだしても不思議な光景であるが、当時も不思議だと感じていた。よそ様の生活がテレビのドラマのような角度から簡単に見えてしまう罪悪感もあったし、不思議なものを見たいという後ろめたい好奇心もあった。私のことだから、たぶんじろじろ見ていたのではなかったか。

☆むかしは当直や日直という制度が一般的だったのか、小さいころ、土曜の夜に父に連れられ勤務先の宿直室に泊まったり、日曜の昼間は事務所で一日過ごしたりしたことがある。もしかしたらそういった事情で保育所の用務員さんは住み込みだったのかもしれない。

☆それにしても、保育所で暮らし保育所に通ったMちゃんは、朝、一歩も外へ出ることなく保育所に出席するわけだが、それに関して彼女はどう感じていたのだろう。単に「便利でいい。」と思っていたなら幸いである。

蜂蜜やさんと花とミツバチ

☆私との続柄は不明なのだが、むかしむかし、親戚に養蜂業を営む男性がいたそうだ。そのひとが亡くなったとき、お葬式に複数の見知らぬ若い女性が小さなコドモを連れて現れコドモを認知してほしいと言い出し、親戚一同仰天したという事件があった。けっこうな高齢で亡くなったその男性から見ると孫のような年ごろのコドモたちであったという。もちろん現実問題としてシャレにならないわけだが、なんだかドリフのコントのようで、私の好きな話である。

☆養蜂業者は蜂蜜を採取するため季節ごとに花のある場所を転々とする必要があるが、その移動の際、いわゆる「港々に女」という状況になっていったものと思われる。あっちでぱらぱら、こっちでぱらぱら、自分のタネを撒いては子孫を増やすのに余念がなかったというか、そういうことの好きなおじいさんだったのだろう。もちろん、相手あってのことだから、ちょっと様子がいいとか、異性に優しいとか、話が面白いとか、なにか魅力のあるひとだったとも考えられるが、なにしろもののない時代のことだから単に蜂蜜で女のひとを釣っていただけかもしれない。

☆まあ、いまとなってはわからないことだらけであるが、親戚にこういう喜劇的なひと、堅気ではない人物がいたというのは面白い。しかしお葬式は紛糾したことだろう。コドモの認知などというこみいった話を誰がどのようにまとめたのか、あるいは誰も何もまとめなかったのかまでは、残念ながら私は聞いていない。

清志郎がぶっ飛ばした夜

☆忘れもしないあの騒がしい夜のこと、開口一番、彼は叫んだ。

「相変らず人口少ねえな、旭川!!」

そして

「コドモいっぱい作れ!!」

と続けた。

RCサクセションが “来日” しているというのに大ホオルの客席の半分以上はなんと無人だったのである。

当時まだ小娘だった私はそのおかげで知人からタダ券を譲り受け、5列目あたり、ほぼ中央の席に立つことができた。そして「今宵の空席埋めるには手遅れだけれど、この場で一斉に繁殖始まったら面白い!」などと酒ビン片手に上機嫌なのだった。

肉眼で5分以上見つづけると白内障になりそうなまぶしいステエヂで、厚化粧もまばゆい彼は、いずこからともなく飛来したセクシイおぱんつを頭にかぶってお帽子にしたり、ひっくり返っておけつからクラッカアを発射したり、愉しさの四十八手をさんざっぱらやり尽くした挙句、ショウを終えた。

「夜をぶっ飛ばせ」を正しく具現化すると、ああなるのだな。いまでも私はそう思う。

愉しかったライヴのあと、物足りなさや終ってしまった淋しさが残るとたまらなく嫌なものだが、夜を100%ぶっ飛ばすと物足りなくも淋しくもなく、嫌な気持はどこにもないのだ。あれはほんとにいい夜だった。

いまとなってはタダ券をくれたのが誰かも、あの日の曲目も、自分が着ていた洋服も、飲んでいたお酒も、何ひとつ覚えてはいないけれど、とにかくものすごく愉しかったということだけは記憶に焼きついている。こんな記憶はめずらしい。

 

☆下品で可愛くシャイで、素敵に愉快な痛快絶倫野郎が地球を去る日が来るとは、考えてもみなかった。

今でもまだちょっとわからないままである。

馬車がやってくる ヤァ!ヤァ!ヤァ!

☆幼いころ、お風呂のお湯は釜をつなげた浴槽に水を入れて湧かしていた。湧かす燃料は石炭だった。

☆石炭はどうやって家に運ばれてくるか。馬車である。「1トン、お願いします。」などと電話で頼めば、石炭やさんのおじさんが馬車を駆って、車道のど真ん中をのんびりやってくる。そうしておじさんは毎度100キロほどちょろまかしては900キロくらいで1トンの料金を取ったりする。取られるほうは正確に計ることが不可能なので抗議のしようもないが、頼むたびに1トンの量がちがったのだと母が言っていた。そういういんちきがまかり通っていた土地であり時代だったのだろう。

☆馬車の馬は濃いチョコレエト色をした重種の年取った雄だったと思う(通常、馬車馬は雄である)。たいへんおとなしい馬で、おじさんがスコップで荷下ろししているあいだは黙々とそのへんの草を食べることに専念していた。

近所のコドモたちがめずらしがって大勢寄ってきて大騒ぎしてもはしゃいでも馬は落ち着き払っており、お調子者のコドモがわあわあいいながら恐る恐る草をあげても平気でむしゃむしゃ食べるだけだった。もちろん、コドモの手を噛んで怪我をさせるようなこともなかったし、いななく声など一度も聞いたことがなかった。よくできた偉い馬だったと思う。

臆病な私は、少し離れた物陰からひとり、馬の様子をそうっとうかがったものだった。私も草をあげたり触ったりしてみたかったが、馬のあまりの大きさに怖じ気づき、どうしてもそばへ行くことができなかったのである。

☆馬車馬のおなかの下には広げた布がぶら下げられていた。それが当時の私には悲しかったが、糞で道路を汚さないようにとの配慮だった。馬はいつもうつむき加減で淡々と荷車を引いていた。石炭やさんの馬車が、あの田舎町の最後の馬車だったのではないか。

☆私が最後に馬車を見たのは30年ほど前、この町の町はずれの、車の往来のまだない早朝の道のど真ん中であった。遠くから見たので何の馬車かはよくわからなかったが、あれは間違いなく馬車だった。時間的なことを考慮するとおそらく観光馬車ではなかっただろう。それ以来、私は観光目的でない馬車を一度も見ていないことになるのだが、いまの日本には観光馬車しか存在しないのだろうか。

石炭を運ぶ馬車はいまの世の中に必要のないものになったのだから仕方がない。そういうことだ。

なんでも代行

☆食餌制限があるので誰でもいいから飲食代行をお願いしたい。私の代わりにアイスクリームやソフトクリーム、パフェ、かき氷、ソーダ味のガリガリ君、ダブルソーダ(以上は溶ける前にさっさと食べ終ることが重要です)、プリン、シュークリーム、キットカットミスタードーナツタータンチェックのパッケエヂのショートブレッド、カントリーマァム、キャラメル、ソフトエクレア、ポッキー、エンゼルパイ、砂糖抜きのチョコレート、ロイズのアーモンドチョコ、マカダミアナッツチョコ、酒瓶の形をして洋酒が入ったチョコ、テキイラ入りの温かいモカジャバ、熱々ピュワココア砂糖抜き、ジャックダニエルズ、テキイラトニック、赤ワインらっぱ飲み、微発泡で濁った日本酒らっぱ飲み等々、地球最期の日の前日のようにたらふく飲み食いしてほしい。

☆旅行は引越と同じくらい大嫌いだが「旅情」は好きだ。コドモのころの記憶によるものかもしれない。列車の長旅で夜になって親戚の住む町へ到着しタクシーに乗って国道を走ると、角の薬局の、くしゃみをするひとの横顔の大きなネオンが見えてきて、そのときやっとよその町にきたことを実感したものだった。

旅行のほうはどこかの誰かに代行をお願いして、私は近場の夜の街を、小路ばかりを選んでカメラ片手に歩き回りたい。ネオン街へほとんど行かない人生を送っているため住み慣れた街の飲み屋街でもじゅうぶんよそよそしく、そのぶん旅情めいたものを感じることができるのである。

☆トイレも面倒なので排泄代行もお願いしたい。先日、夫に頼んだところ「それは出来んのだわ。」と優しく断られたが。

☆そもそも人生の代行を……。

祖父の酒飲み夜話

☆下っぱの歩兵として旧満州に入った祖父は、来る日も来る日も背嚢(はいのう)を背負い一日じゅう歩かせられ、足の裏に水ぶくれができるとヨードチンキをしませた糸を針に通し水ぶくれを刺し貫かれる日々に「軍隊は駄目だ。」とつくづく思ったという。

帰国後、空軍の試験も受けてみたが祖父には不向きであった。そこで二度と召集されないよう必死で勉強し、一発合格で警察官になったのだった。じっさいに六法全書を1ペエヂずつ食べて暗記したそうだ。(全ペエヂ食べたかどうかはわからない)

 

☆祖父が戦争のときに見たという「支那」の農民のこと。

・朝はみんなで畑の端に並んで排泄を済ませる。

・顔を洗うときは手を顔に当て、手ではなく顔を動かす(この動作で中国人だとばれたスパイがいたらしい)。

・彼らは大きな急須に柳の葉をびっしり詰め、お茶として飲んでいたという。私は祖父に訊いた。

「んまいの?」

「んまくないさ。」

・放し飼いの豚の捕まえ方。朝、縄で輪っかを作り、そこいらを走り回る豚の首に無理やり引っかけ、あとはひとりのひとが豚に引きずられながら輪っかを少しずつねじり続ける。そうすると夕方には豚の首が絞まるのだという。気の遠くなるような絞め方に祖父は呆れていた。

・祖父が見た「支那」の農民は長ギセルを使っていたという。しかし口にくわえれば長すぎて火皿に手が届かず火を点けられない。火皿に火を点ければ口にくわえられず吸い込むことができない。そんな長ギセルで彼らはいったいどうやって煙草を吸っていたのか。昭和も終りのころに聞いた話だったが、祖父は「あいつら、まだやってるのかなあ。」と心配そうだった。

・大陸の大きな夕日。とにかく夕日が大きかったと話していた。

 

☆大連市に滞在したときは、美しい町並みを歩き、立入りが禁止されていたコンサートホールでオーケストラの演奏をこっそり聴いたりした。

 

スタルヒンのお母さんがこの町の自衛隊界隈を「文化パーン」と呼びかけながらパンを売り歩いていたのをよく見たという。

 

☆祖父が直接見聞きしたわけではないが、この町のいわゆる「英霊の帰還」の話もしていた。

ある夜、戦争中は「師団通り」と呼ばれたメインストリイトから電車通りを抜けて第七師団にいたる道を歩く大人数の兵隊さんの足音を聞き、衛兵が迎えた。激戦の地からの帰還兵だったらしい。挨拶は交わされたが、その後は人っ子一人おらず、まさに「かき消つやうに失せぬ」であったという。当時、地元ではかなり有名な話だったらしい。

 

☆警官時代、まだ新人だった祖父は「仁左衛門殺し」の現場をひとりで夜通し警備するよう任されてしまった。彼はお化けと暗闇が怖いため、一晩じゅうおびえながら障子に血しぶき飛び散る生ま生ましい殺人現場にひとりぽっちで立っていた。さぞかし長い夜だったろう。朝になって大勢の警察官が現れたときには気が抜けたと言っていた。

 

☆これも警官時代のお話。夜、仲間とお酒を飲み泥酔して、オート三輪の荷台にお胡座をかいてうたた寝したまま家まで送ってもらうはずが、急な坂道を走行中、お胡座の体勢のまま転落し、おいてけぼりにされてしまった。しかし眠っていた祖父はそんなことは知らず、道路の真ん中にお胡座をかいて眠り続けた。しばらくして目が覚めると、自分の現在地がわからないことに気づく。終戦前後の東京のこと、夜は真っ暗闇であったが、一つだけ、向こうに赤くて丸い光が見える。目を細めよくよく見ると交番である。仕方がないので祖父は千鳥足で交番へ行きお巡りさんに尋ねた。

「すみません、ここ、どこですか?」

自分だってお巡りさんなのに(笑)。

 

☆これまた警官時代。仮眠中、緊急出動の要請があった。すばやく身支度をしてポールをすべり降り車で出発するのだが、当時はゲートルという厄介なものを脛に巻かねばならず、寝ぼけた祖父は自分の脚をベッドの脚にゲートルで固定してしまい、立ち上がっても動けない。仕方なく急いでやり直し、ポールをすべり降りたときには遠ざかる車の後ろ姿が見えたという。間一髪、惜しかった。

 

☆も一つ、警官時代を。夜勤明けなのか、まだ始発電車も走らない時間に明け方の暗い道をひとり歩いて帰途についていた。とあるガード下にさしかかったところで黒い人影がわらわらと現れ祖父の行く手を阻んだ。即座に人数を確認すると16人。ある犯人の逮捕に祖父が関わったことを逆恨みしてのことだった。1対16。柔道初段の祖父は制服をどろどろに汚しながらどうにかその場をしのいだ。帰宅も大幅に遅くなり、迎えに出た祖母が泥だらけの祖父を見て「どうしたの?!」と驚くと、祖父は「闇討ちだ。」とひとこと答えた。酔った祖父は同じ話を何度もくりかえしたが、この話はたった一度しか聞いていない。それほど怖い思いをしたに違いなかった。

 

☆そんな祖父が、ある事情から警官の職を辞して、とつぜん仲間たちと材木屋を開業した。最終的に祖父は木目を見れば何の木かわかるひとになっていたらしい。

 

☆いつごろのことか、またどの地域でのことかは失念したが、屠殺業者を「イッタ」と呼んでいたと語った。「イッタ」とは「穢多(えた)」の変化だろうか。

 

☆私がまだ幼かったころ、木工場の工場長になってからは土曜の夜はオールナイトで中央公論を読んでいた。

 

☆リタイアしてからは毎日パチンコで負けていたが、「お母さんには内緒だぞ。」とよくおこづかいをくれた。

 

★お酒を飲みながら夜な夜な祖父が語ったことをいくつか思いだして書いてみた。私の記憶ちがいで事実に反することもなかにはあるかもしれない。その際はご指摘いただければ幸いである。

(なにしろ祖父はもうこの世のひとではないので、指摘してもらおうにもかなわないのであった。)

私のGR

☆GRと白黒フィルムの日々がひどくなつかしく思いだされるときがある。右手がGRの鋳物の感覚を恋しがって困ることもある。縦に構えればあつらえたようにぴったり親指の位置にシャッターがあったのだ。架空のGRでもいいから手に持ちたい。

☆あのGRで何枚の写真を撮ったか、そのためにどれだけの距離を歩いたか。暗くて撮れなくなるまで撮るのは毎度のことだった。疲れてふらふらになるまで撮るのも当たり前だった。36枚撮りを10本以上ポケットに入れたのに足りなかったこともあった。GRを右手に握ったままポケットに入れて息があがるまで「獲物」を探し歩き、獲物を見つけた瞬間立ち止まり息を止めてシャッターを押し、撮り終えるとその場から逃げるようにすぐまた歩きだす。このくり返しだった。迷子になることも多かったため小さな住宅地図も携行したが、とにかくGRと私はいつも「二人きり」だった。

☆いま私のGRはどこでどうしているのだろう。

音楽に専念しようと、部屋で眠っていたGRを手放すことに決め、そのころよく行っていた或る写真ギャラリーの主(GR愛用者)に思い切って進呈したのだが、その後ギャラリーは消滅、ギャラリーの主の消息もわからないままだ。ギャラリーの書架にあればいつでも見られると思い、桑原甲子雄など、気に入りの写真集も贈呈したのだが、もう二度と見ることができなくなってしまった。せめて大事にされていればいいが、GR。

☆GRは、私に写真を撮らせてくれた立派なカメラだった。ISO1600の白黒フィルムで真っ昼間から撮影するバカな私につきあってくれた「恩人」のことが未だに忘れられなくて困っている。

お江戸の桜

☆いまごろお江戸ではきっと、ソメイヨシノや何とかヤマザクラはおおかた散ってたくさんの八重桜が咲いているころだろう。お江戸の八重桜はふんわりと大きな花で、見るたびにジャンプして喰いつきたい衝動に駆られたものだった。八重桜は、桜餅によく似ているように私の目には見える(お江戸の「道明寺」は北海道では「桜餅」と呼ばれる)。病的に桜餅が好きだからだろうか。

☆コドモのころ、庭に背の低い華奢な八重桜が一本あり、春の終りごろになると細い枝に小ぶりで控えめな花をつけた。こちらは桜餅には見えなかったが、気に入りの庭木の一つであった。これも私が八重桜を好きな理由だと思う。

☆桜の時期にお江戸で知ったことは、桜はひとを狂わせるということだった。

真っ昼間、穴場的な桜の名所へ散歩に出かけて見たものは、桜の木の下の石段に腰をかけ、桜を見ながらコンビニ弁当を一人で食べるOLさん、自転車の籠にカメラを二台積んで橋の上から桜を狙ういかにも可愛らしいおばあさん(短い橋の上にはカメラを構えたひとがぎっしり並んでいた)、人混みのなか一心不乱に地面を突ついて歩くふっくらとした茶色い雌鶏と、その様子をしゃがみこんでじっと見つめる小学四年生くらいの男の子、お散歩の途中で急にごろりと寝そべって桜を見上げ、飼い主のおじさんからぼそっと「花見か?」と訊かれる犬、全力で合唱の練習をして拍手喝采を浴びるどこかの合唱団、等々。

みんな騒いだりせず、それぞれ静かに桜を楽しんではいるのだが、どこか様子がおかしいというか、なんとなく空気がざわざわと騒がしいのだ。北海道の桜にはそういう雰囲気は感じない。

お江戸の桜には、きっと何か隠された秘密があるにちがいない。それまでお花見にまったく興味のなかった私が「明日もまた見に来よう」とうっかり思っていたのだから。

☆テレビやインターネットでお江戸などの桜の映像を見て、来月に予定されている当地の桜をわくわくせずに待っている今日このごろだ。

人生に疲れた9歳が考えたこと

☆9歳、小学3年のとき、私はすでに青息吐息だった。疲れた。とにかく学校だけでも休ませてくれ。いますぐ休むことができないなら、義務教育の間はなんとか我慢するから、そこから先はしばらく休ませてくれ。そうでないとその先どうすればよいのかわからない。そんな危機感をいつも抱いていた。相談できるオトナは一人もいなかった。

☆両親は学校の味方、世間の味方で、ガキは学校へ行く義務があるのだからその義務を果たせ、世間体を考えろという立場だ。私の精神的肉体的疲労、どうしようもない倦怠感など眼中になく、私もそれを上手に訴えるほど日本語が達者ではなかった。

まあ、たとえ疲労感、倦怠感を上手に伝えることができたとしても、自分だけ楽をしようと思うなよとコドモのケツを叩いて終りだったにちがいない。なにしろいちばんかわいそうなのは自分たち、貧しい家庭で育ち頭がいいのにろくに教育も受けられず社会的に報われていない自分たちだと思っているような両親だったから、高熱を出していないコドモや病気にかかっていないコドモは負けてはいけない憎い「敵」のようなものだったようだ。

☆幼いころ、父が私を胡座の中に入れて「新品の服を着られるのはお父さんのおかげなんだよ」「裕福なのはお父さんのおかげなんだよ」と耳もとで囁いた。幼いながら私はどんな顔をすればいいのかわからず、ただただ困惑した。たしかに洋服は新品を買ってもらってはいたが、妹は私のお古ばかりだった。「裕福」な生活などしたおぼえがなかったので父の言葉を肯定するわけにもゆかず、さりとて否定することもできず、だまってうつむくしかなかった。

☆さて、ようやく義務教育を終え、高校にも合格し、母と二人で高校の入学式へと向うバスに乗りこんで気がついた。これは新しい3年間の始まりではないか。この道をどう降りるかを考えたが方法が見つからない。仕方なく朝7時前のバスに乗り高校へ通った。

入学式から10日ほど経ったころ、うまい具合に病気にかかった。お医者さんが通学は無理だというので1年間休学することになり、念願だった休息を手に入れたはいいが、けっきょく高校はドロップアウトしてしまった。