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「うち」のひと

うだうだ 幼年時代 私事

☆世間のひとがよく使う言い回し、うちの学校、うちの先生、うちの会社、うちのお母さん、等々々々。 「うち」とは、自分が暮らす、或いは暮らした、または生まれた場所(都道府県、市町村など)、親兄弟、親戚、勤め先、学校など自分が所属する何らかの集団である場合が多いようだ。 そんなにどこかに「所属」したいものだろうか。そもそも所属すべきなのかどうか。所属すれば必ず規則に縛られるが、わざわざ縛られたいということなのか。 もしかしたら所属することによって得られる「何か」があって、それに救われてでもいるのだろうか。だとしたら何にどう救われているのか。果たしてそれはほんとに救いなのかどうか。 「そこ」には「囲いの内と外」とがあり、それが生み出すはずの排他性を考えると、ないほうがいい「何か」のような気もする。 「囲いの内と外」以外の場所はないものか。中途半端なグレエゾオンは存在し得ないのか。

☆「囲いの内と外」=社会であれば、逃げ場はない。内と外との二択のみ。なにしろ死ぬまで逃れられないのが「社会」という場所だ。

☆私は常に「囲いの外」にいるが、同時に「帰属意識による排他性」という落とし穴にもちょくちょく落ちていた。いまも囲いの外にいながら頭は落とし穴の中かもしれない。怪談話よりも怖い話である。

☆九歳のとき、私は所属する場所を失った。それ以来、私に「ホーム」はない。故郷から無理やり引きはがされる痛みは忘れ難く、つねに生傷のままだ。

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