こんな夢を見た

☆夜A

◆故郷の小学校を訪ねると高学年用の玄関が図書室になっていた。下駄箱はすべて本棚に置き換えられ、机も椅子もなく床に座って本を閲覧するスタイルだった。

◆遠くに住む一つ年上の友達・Kちゃんがランドセルを背負ってはるばるやってきた。私は彼にネクタイを買いにゆくよう懇願する。同じツアーに、これまた遠くで暮らすY子ちゃんも偶然いた。夢とはいえ、久しぶりに友達の顔を見ることができてうれしかった。

 

 

☆夜B

友達のYちゃんKちゃん夫妻の新居へ遊びに行く。赤いものがそこここに置かれた派手な寝室には、私の古い知人が商うキャラクター「ジンギスカンのジンくん」の大きなクッション状のものがある。Yちゃんは室内にものが多すぎて困っているようだった。

 

 

☆夜C

どこかの学校の体育館に男ばかりが何人か入った大きな炬燵が置かれている。そのおこたからサザンの桑田が顔を出しマイクを握って何かの曲を熱唱している。実際に男の汗の臭いがした。(私の名誉のために付け加えるが桑田ファンではない)

 

 

☆夜D

東京在住という設定で、久しぶりに生まれ故郷を訪ね、なつかしい夏のごちそうをたらふく食べさせてもらった。親戚のひとたちは現実の年齢よりもうんと若い。明るく広い座敷にみんなで集まって、亡き母方の祖父の書体を再現できるどんぶり型のテンプレエトを試している。いいお天気だ。

 

 

☆夜E

友人D君が私の何かを褒める文章をたくさん書いてくれた。おまけに手巻きのような感じの茶色い外国製の細い煙草も一箱くれた。葉巻の味だというその煙草はフィルタアが食べられるようにできており、煙を吸ったり吐いたりしながらチョコレエトのようにおいしいフィルタアも食べた。彼の文章が印刷された紙を床に広げ、煙草を吸いつつ読みふけったのだった。

朝から拷問するお父さんのいる風景

☆いつもと違う位置に置かれた食卓には私ひとりだ。機械的に朝食を飲みこむ私の背後、カアテンを引いたままの薄暗い部屋では、小さな子が「保育所へ行け!」「なぜ保育所へ行かない!」と罵声を浴びせられ、平手打ちの連打を喰らい布団の上を右に左に転がされて泣き叫んでいる。恐怖のあまり、その子はとうとう「(保育所へ)行く…。」と小さな声で言ったが、虐待者は金切り声ですかさずわめいた。

「そんな(殴られた手形の付いた)顔で(保育所に)行けるわけがないだろう!」

独善的な彼の「躾」の手段は逆上と脅迫と暴力なのだが、彼はそれを善意と良識と正義だと思いこんで疑わないらしい。次は私の番だろうか。喉ぼとけに大理石の球が詰まっているせいで食べ物がつかえるけれど、朝食を残らず飲み干して(でも急がないふり)、急いで家を出て、一刻も早く虐待者から逃げなければならない。幼い私では折檻されているかわいそうな小さな子を助けることはできないし、誰かに助けを求めることもできない。虐待者は実の父だからである。行きたくないけれどいい子のふりをして学校へ行かなくては危険だ。それでも何もされない保証は残念ながらどこにもない。すべては虐待者の気分次第なのである。不思議なことに母の姿が見当たらない朝であった。

パパママ・ガイキチ

☆つきあいきれないのと、かかわり合いたくないのとで、小学4年あたりから私は父を避けるようになっていった。

☆そうすると、なぜ自分だけを疎外するのか、ときいきいした非常にヒステリックな声で父が怒鳴る。静まり返る食卓。不味い食事が余計に不味くなる。絶好調で文句と説教を垂れる父を止められる者のいない世界である。

☆父は自分の思うままになるのも好きだったが、その反面、揉め事も好きだった。中学生のころ、同級生がかけてきた性的ないたずら電話にきつい訛りの金切り声で応答し、説教までしていた。だからまたいたずら電話がかかってくるわけだが、父によると「おまえの日ごろの行いがわるいからだ!」とのことで、わるいのは私ひとりだったらしい。

☆つい最近までの父の印象としては、

・コドモなど家庭内弱者を恐怖や暴力で支配しようとする(本人は親切のつもりである場合も多い)。

・家庭の中にも外にも父を止める者は誰ひとりいなかった。

・そういうわけで私は幼児のころから一人暮らしに憧れ続けた。

・思春期に入りそろそろ限界を超え、父を避けた。

・父はそれを私の「年ごろ」のせいにした(これは父に落ち度はないということを意味する)。

☆家庭内に救いはほぼなかった。両親ともに普段からきいきいしたヒステリックな物言いが多く、私の顔さえ見れば文句か説教を垂れ流すのであった。小学4年のとき、新しい環境になじめず不眠気味の私の顔を見ていろいろ文句を言ったあと「そういうのをきちがいの目というんだ!」と父は正面から叫んだ。もちろん私は耳を疑った。キチガイキチガイと言われたのか、と。

同じころ、参観日に来た母が帰宅後、「あんただけ頭のつむじが大きくて恥ずかしい! もう髪の毛を抜くんじゃない!!」と眉毛をつり上げまくしたてた。当時、私は、いわゆる抜毛症になっていた。

いろいろと満たされない両親にとって、私は恰好のサンドバッグであったようだ。飾りものの飴と使い込まれた鞭の冷たい家だった。

☆そんな両親には友人が一人もいない。私が幼いころ、友達が欲しくて子供を産んだのだと母は楽しげに語ったことがある。早く大きくなって対等におしゃべりできる日が待ち遠しいとも言っていた。彼女が欲したのは「オトナ」の私で、「コドモ」の私など求められてはいなかったのだ。しかし「コドモ」を尊重しなかったために彼女の「友達づくり作戦」は無惨な失敗に終った。母はこのことに気づいていないと思う。

☆こういう家庭を楽しむ方法はどこにもない。親を反面教師とするのがせいぜいだ。

☆楽しくもない物事を楽しむには莫大な労力を要するし、楽しくない物事を無理やり楽しむことは基本的に不可能であり、無駄な努力である。

若気の至り(若き野郎ども篇)

☆とあるお正月、地元の百貨店の地下通路のベンチで休憩していた。そこを通りかかった中学生男子二人組。一人が鞄から空のペットボトルを取り出し「ぜんぶ飲んじゃった…。」と相手に見せた。見せられたほうはさっそく鞄をごそごそし、自分のペットボトルのお茶を差し出してぼそっとひとこと、

「粗茶だけど…。」

それを聞いた瞬間、私は彼らとお友達になりたいと強く思った。

 

☆小学四年生男子がお風呂のお湯に浸かり「〽︎時には娼婦のように〜」と真剣に唄った。

次の瞬間、いっしょにお湯に浸かっていた母ちゃんに後頭部をすぱーんと叩かれ「もっとコドモらしい唄、唄いなさい!!」と叱られた。

のちに彼は、「テニス」に誘われているのに「は? ペニス? は? ペニス?」と真顔で聞き返したり、どこかで覚えた「コケティッシュ」という言葉を「 ” コケ ”  で  ” ティッシュ ” 」だからすごくすけべな言葉にちがいないと勝手に解釈したりするオトナになった。人間は変化する。しかし人間は変化しない。

 

☆とある住宅街でのこと。古紙回収のトラックが通りすぎたところに小さな坊やがひとり、道路に飛び出して叫んだ。

「おじちゃーん!」

その声は古紙回収のおじちゃんに届いた。おじちゃんは親のおつかいかもしれないと思ったのかトラックを止めた。ミラー越しに坊やを見て、バックする態勢に入っていたかもしれない。

そして坊やは手を振り力強く叫んだ。

「ばいばーい!」

おじちゃんはそのまま走り出した。

 

☆ある夜のイトーヨーカドーでのことである。二歳になるかならないかくらいの坊やがカートに乗せられていた。カートが女性用下着売場にさしかかったとき、陳列された大量のぶらじゃを発見した坊やが、よく通る大きな声で「ぉぱーい!」と叫んだ。坊やは止まらない。可愛い声で楽しげに「ぉぱーい!」「ぉぱーい!」と激しく連呼する。あたりにはほとんどひとはいなかったが、カートを押すいかにも若くて真面目そうなお母さんは表情を硬くしてものすごい早歩きで通りすぎて行った。子をもうけると大変な出来事がさぞやたくさん起るのだろうと、笑いを堪えながら世のお母さん方の苦難を思い、自分にコドモがないことを改めてありがたく思った夜だった。

萌え萌えと、女装できないおばあさんの明日

☆十年ほど前の話である。市中心部の横断歩道を渡っていたところ、男子高校生らしき声で「もーえー!!」と叫ぶのが聞えてきた。どうやら自転車を飛ばしながらのようだった。その場で膝小僧靴下(いわゆるニーハイ)を着用していたのは私ひとりだったから、もしかしたら萌え萌えなひとと勘違いされたのかもしれないが、残念ながら私は萌え萌えなひとではないので「もーえー!!」の彼は不正解である。しかし通りすがりに赤の他人からそんな面白いことを言われる機会は滅多にないのでやけに可笑しかったことをいまでも覚えている。

 

☆そのころだろうか、この町に初めてのメイド喫茶ができ、さっそく行ってみた友人I君がものすごい勢いで文句を言った夜があった。曰く、単なる飲み屋のおねいちゃんが取ってつけたようなメイドさんの衣裳を着け、酒焼けした声で「ご主人様ぁ!」と接客しやがった、と。彼が最も立腹していた点は、ニーハイの似合うおねいちゃんがひとりもいなかったということだった。そこのおねいちゃんより私のほうがずっとニーハイが似合うとのことだったから、かなり悲惨なメイド喫茶だったのは想像するに難くない。好奇心から求人広告を見てみたらお時給が水商売並みだったのだから、この田舎では仕方のない事故ではあったと思う。たしかそのお店は数ヶ月でつぶれたはずである。

 

☆私は膝小僧靴下の愛好家で、けっこうたくさん所有している。しかし困ったことに私は病気の老人になってしまった。あれを着用するには生き物としてある程度の馬力を必要とするのである。その馬力を病気と老化で一気に失ってしまったのだが、着用できなくなったからといって、長年探しまわって集めた愛着ある靴下を捨てる気になどなれないのだ。なかには30年前から所有してほとんど着用していないお気に入りもある。同じように、長い時間をかけて蒐集したミニスカアトも、着用することも捨てることもできずにいる。老人になった私は一体どんな洋服を着て残りの人生を過ごせばよいのか、途方に暮れる今日このごろだ。

家系病はオカルトの病(笑)

☆私の母は幼少のころエクソシストのお世話になったことがある。普段は食の細い彼女が、食べても食べても強烈な飢えを感じてひたすら食べ続け、その様子を不審に思った彼女の祖母(つまり私の曾祖母)が知り合いのエクソシストのもとへ連れて行ったのだった。

エクソシストは墓石やさんのおばあさんである。行くと、押入れの中に黒くて大きな仏壇がある部屋に通され、母はエクソシストのおばあさんと二人きりになった。「先祖の霊が憑いている。」と判断された母は背中を何かでぽんぽん叩かれるなどお祓いのようなことをいろいろとしてもらい、その結果、食欲はけろりと治まったという。

 

☆母の父、すなわち私の祖父であるが、このひとは極めつきのオカルトであったらしい。戦争中は戦地で、夜、トイレの個室のドアを開けるとその日亡くなった戦友の死の場面がそっくりそのままそこにあった、などと普通の話のように話すので、祖父がオカルトの人であると知ったとき、彼はすでに地球を去っていた。また、非常に臆病な人でもあり、暗い場所とおばけが何より怖かったのだから、どれだけ怖い思いをしたか、想像しただけで気の毒になる。

 

☆その祖父の妻、すなわち私の母方の祖母は、長年オカルトな祖父と暮らすうちヘヴィなオカルトになっていったらしい。夜、祖父と二人で寝ていると天井の蛍光灯がいきなり点灯し、「ああ、消さなくちゃ…。」となかば寝ぼけた祖母がぐずぐずするうちに勝手に明かりが消える、ということは日常茶飯事だったし、朝方、祖母が目を覚ますと、近所の奥さんが枕もとに正座して祖母の顔をじっとのぞきこんでいて、じつは祖父に急用のあったその奥さんが朝いちばんに訪ねてきたり、といったようなこともさほど珍らしくなかったので、私は祖母のほうがオカルト体質なのだと長年誤解していたくらいだ。

 

☆さて私のオカルト度合いだが、若いうちは多少そういう傾向もあった。巻き込まれてやむを得ず行ったいわゆる心霊スポットで、はからずも場を盛り上げてしまうようなこともあった。しかし年を取ってからはオカルトとはめっきり縁遠い。「おばけさん」よりも生きている人間のほうが私を怖がらせるせいかもしれない。いまはせいぜい収入がある前に掌がかゆくなるくらいだ。この現象は少なくとも三代前からこの家系の女に見られる、いわば家系病のようなものであるが、果たしてオカルトといってよいものかどうかはわからない。

若気の至り

☆女子高生のA子ちゃんとB子ちゃんが雑談していて、A子ちゃんがC子ちゃんの兄をさりげなく「アーニー」と称していると、B子ちゃんが「C子ちゃんのお兄ちゃんて外人なの?」と真顔できいたという話をA子ちゃんがしていたのは30年ほど前になる。私がA子ちゃんと会ったのはその一度だけだし、会ったなりゆきももう覚えていない。思えば十代は一期一会の連続であった。

☆十代も後半のころ、ヤンキーのお嬢さん・Mちゃんが「売春」を「スプリング・セール」と勝手に翻訳していた。彼女は「文金高島田」を「きんしんたましらず」と涼しい顔で言ったりもするひとだった。ヤンキー活動が過ぎる彼女と私との接点はあまりなかったが、こういったことは未だに記憶に残っている。

☆中学時代のある日、クラスメエトのM君、S君、Yちゃんと放課後に雑談したことがあった。教室にはほかに誰もいない。M君は一心不乱にミルキーバーを舐めて凶器のように尖らせご満悦だった。そのM君が突然「おえっ!」みたいなことを叫んで、くわえていたミルキーバーを急いで口から出した。ほかの三人は驚いて「どうしたの?!」などと騒いでいると、M君はますます鋭角的になったミルキーバーを示して苦しそうに言った。

「ミルキーバーが扁桃腺に刺さった…。」

彼は扁桃腺肥大だった。私はコドモのころ図鑑で扁桃腺肥大を知って以来、実物を見てみたいと強く願っていた。憧れてすらいた。チャンス到来。懇願してM君のお口の中をのぞかせてもらうことに成功した。立派な扁桃腺肥大であった。S君、YちゃんもついでにM君のお口をのぞきこみ「おお。」と控えめな歓声を上げていた。あの日「あーん」してくれたM君の大きな扁桃腺とM君自身の幸運を祈ってやまない。

カラスの群れと鉄砲撃ち

☆田舎暮らしをしていたコドモのころのこと、自宅の正面からまっすぐ延びる道路の行き止まりに養豚業を営む同級生のY君の家があった。

☆ある日、Y君宅の屋根の上をおびただしい数のカラスがぎゃあぎゃあ鳴きわめきながら飛び回るのが見えた。ときおり変な音も混じってなかなかの大騒ぎである。そばにいた父に「Y君のおじさんはカラスを集めているの?」と訊くと、カラスが多すぎるから散弾銃で撃って殺しているのだといったような答えが返ってきた。たぶんそのあとは例によって散弾銃についての説明が繰り広げられたのだと思われる。

☆もともとY君の父親は近所の牛飼いのOさんと仲がわるかったらしく、大げんかの果てに鉄砲の撃ち合いにまで発展したこともあったという、どうも血の気の多い人物だったようだ。牛飼いのOさんは後に飼っていた牛の角で腹部を突かれ亡くなり、牧場は廃業を余儀なくされた。

☆近所だったせいもありY君の家へは一時期、何度か遊びに行ったことがあったが、二三歳年上の意地悪なお兄さん以外の家族には会った記憶がない。そうこうするうち私はY君の家へは行かなくなっていた。なんだかお友達づきあいに疲れてしまったのだった。

☆あの田舎には鉄砲撃ちが多かったのか、細い丸太を組んだ足場のようなところにカラス除けと称してカラスの屍体がいくつもぶら下げられていたり、猟銃自殺したりしたひともあった。田舎の景色はのどかだが、人間のほうはそうでもなかったらしい。

性的な意味でふざけた田舎の人々

☆まだ田舎に住んでいたころのこと。あるとき、私は居間で上半身裸だった。母に着替えさせられていたようだ。そこにはなぜか父もいた。彼はにやにやした顔で私の左の乳首をつんつんつまみ、「これ何ァに。これ何ァに。」とせかすような口調で言った。母はにやにやした顔で「えっちだねえ、って(言いなさい)。」といつになく楽しげに言った。まだ幼かった私はだまってうつむくしかなかったが、両親はとにかくにやにやしていた。コドモに羞恥心がないと思ってやったことなら愚かにもほどがあるし、羞恥心があるとわかってのことなら悪趣味としか言いようがない。弱者に屈辱を与えては喜ぶ彼らの習慣も理解しがたい。こうして両親への信頼感や敬意といったものは日々少しずつ、しかし確実に蒸発していったのだった。

☆朝食時、母に「今日、するか。するか。」といやらしい笑顔で執拗に訊く父と、固い表情で無言をつらぬく母。ほとんど毎朝のことであった。コドモにはオトナの話は理解できないと思いこんでいた両親の失敗である。あの父のいやらしく楽しげな様子、それとは対照的な母の固い表情がすべてを物語っていた。

保育所に行けば行ったで、ひとつ年下の美少女が、お昼休みの大騒ぎのおゆうぎ室でごく自然に性器を露出し、私に向って「あなたのは、どんなのー? 見せてー。」と言う。私はびっくりして固まってしまった。幸い誰も見ていなかったようだが、不幸なことに私は見てしまった。

☆私の故郷は美しく、コドモ時代は非常にトリッピーで、あの感覚をまた味わってみたいと思う。が、上記のようなことまで再び体験せねばならぬのなら二度とコドモには戻りたくない。あんなことは金輪際御免こうむる。

田舎は性犯罪のパラダイス

☆田舎は性犯罪のパラダイスである。コドモからオトナまで、性別が男でありさえすれば24時間すけべヅラをしていてもとくに問題視されないし、ひとの目を盗んで猥褻で卑劣な行為におよんでも「あいつはすけべ」と噂される程度で済む。あの土地の性的なからかい、あるいは性犯罪の主な対象は幼い女の子ではなかったか。私の故郷の景色はため息が出るほど美しいが、ひとは醜い。

☆私の育った田舎町は少し特殊な環境ではあった。が、とにかく性的な事象が横行していたと思う。なんというか、性に対して貪慾な感じなのだ。娯楽のない田舎では性全般と人間関係のもつれが日常の娯楽だったのかもしれない。

☆まだ小さいころ、自宅前の横断歩道を、バイクにまたがった二人の若い男に「いやあ、いやあ、いやあ、いい女、いい女。」と野太い声でからかわれながら急いで渡ったことがある。田舎だから目撃者もない。助けてくれるひとも、もちろんない。そのとき私は、母の趣味でおぱんつが丸見えのスカアトを着用していた。幼いながらに恐怖と屈辱を味わったのだった。

☆小学二年のときだったか、通っていた珠算教室から何の前触れもなくひと気が消えたことがあった。ノックをしても返事がない。結局、珠算教室の廃止をなぜか私だけが知らされていなかったのだが、何も知らない私はバカ正直に玄関前で待つことにした。待ちくたびれたので玄関の引き戸を背にしゃがみこんでいると、いくつか年上の知らない男の子がひとり、声をかけてきた。はじめは普通にやりとりをしていたが、突然、相手が私の着衣の股間に手を突っ込んだ。私は驚いてすぐさま立ち上がり相手の目を見ると、うすら笑いを浮かべ、なにかひとことふたこと言って去っていった。

私はこういう場面で悲鳴を上げられない人間である。家庭の環境もあり、ひとに対して恐怖心のようなものを持つことも少なくなかった。そういう中で起きた「事件」だった。

このことは、もちろん誰にも話せなかった。初めてひとに話したのは三十歳に近くなったころ、ようやくできた同性の友人数名にであった。友人のひとりによれば、私は狙われやすいタイプのコドモとのことだった。

☆住む場所が変わりオトナになっても「狙われる」日々はずいぶん長く続いた。しかし、どう考えても、いや、考えれば考えるほど、わるいのは「狙う」ひとのほうなのだ。すけべ、死すべし。

阿佐ヶ谷のありん堂のみそ柏はすばらしい

☆そのむかし、阿佐ヶ谷で暮らしたことがある。JR阿佐ヶ谷駅北口を出て左、スターロードという商店街というか飲み屋街のいちばん奥にある和菓子やさんの「ありん堂」がなにより好きだった。いまでもお店で売られていたいろいろなお菓子が腦裡をよぎって困るほどだ。

☆五月のお菓子はなんといっても柏餅、それもみそ柏がよい。お味噌風味の白あんが病みつきになり、毎日のように通ったものだった。お餅と柏の葉がべたべたとくっつくこともなく、ものを食べるのが下手な私にはありがたかった。阿佐ヶ谷を離れてもう十年以上になるが、ありん堂のみそ柏を忘れたことはない。拒食気味の私でも食い意地が張るのだ。

☆東京へは行きたくないが、ありん堂へは行きたいと思う。古びたお店の正面に置かれたガラスの陳列棚の前で、あれもこれもと注文し、おまけに欲張ってみたらし団子の買い食いもしたい。ああ、ありん堂!!

用務員さん24時

☆私が通った保育所には、ひよこ組(3歳児)、りす組(4歳児)、ばんび組(5歳児)、きりん組(6歳児)の各教室、コドモたちが体を張って遊ぶおゆうぎ室、それに用務員さん一家の暮らす部屋があった。用務員さんのお子さん、私よりひとつかふたつ年上の女の子Mちゃんも保育所に通っていた。

☆用務員さんの部屋は廊下に面した小上がり状で、上半分が素通しのガラスの引き戸で区切られただけだし、よく開けっ放しにもされていたから、そこを通りかかると用務員さん一家の暮らしがどうしても目に入ってしまう。家族そろって朝ご飯を食べている場面、保育所や学校へ行く準備をするコドモたちの様子、それを手伝う用務員さんの奥さん。いま思いだしても不思議な光景であるが、当時も不思議だと感じていた。よそ様の生活がテレビのドラマのような角度から簡単に見えてしまう罪悪感もあったし、不思議なものを見たいという後ろめたい好奇心もあった。私のことだから、たぶんじろじろ見ていたのではなかったか。

☆むかしは当直や日直という制度が一般的だったのか、小さいころ、土曜の夜に父に連れられ勤務先の宿直室に泊まったり、日曜の昼間は事務所で一日過ごしたりしたことがある。もしかしたらそういった事情で保育所の用務員さんは住み込みだったのかもしれない。

☆それにしても、保育所で暮らし保育所に通ったMちゃんは、朝、一歩も外へ出ることなく保育所に出席するわけだが、それに関して彼女はどう感じていたのだろう。単に「便利でいい。」と思っていたなら幸いである。

蜂蜜やさんと花とミツバチ

☆私との続柄は不明なのだが、むかしむかし、親戚に養蜂業を営む男性がいたそうだ。そのひとが亡くなったとき、お葬式に複数の見知らぬ若い女性が小さなコドモを連れて現れコドモを認知してほしいと言い出し、親戚一同仰天したという事件があった。けっこうな高齢で亡くなったその男性から見ると孫のような年ごろのコドモたちであったという。もちろん現実問題としてシャレにならないわけだが、なんだかドリフのコントのようで、私の好きな話である。

☆養蜂業者は蜂蜜を採取するため季節ごとに花のある場所を転々とする必要があるが、その移動の際、いわゆる「港々に女」という状況になっていったものと思われる。あっちでぱらぱら、こっちでぱらぱら、自分のタネを撒いては子孫を増やすのに余念がなかったというか、そういうことの好きなおじいさんだったのだろう。もちろん、相手あってのことだから、ちょっと様子がいいとか、異性に優しいとか、話が面白いとか、なにか魅力のあるひとだったとも考えられるが、なにしろもののない時代のことだから単に蜂蜜で女のひとを釣っていただけかもしれない。

☆まあ、いまとなってはわからないことだらけであるが、親戚にこういう喜劇的なひと、堅気ではない人物がいたというのは面白い。しかしお葬式は紛糾したことだろう。コドモの認知などというこみいった話を誰がどのようにまとめたのか、あるいは誰も何もまとめなかったのかまでは、残念ながら私は聞いていない。

清志郎がぶっ飛ばした夜

☆忘れもしないあの騒がしい夜のこと、開口一番、彼は叫んだ。

「相変らず人口少ねえな、旭川!!」

そして

「コドモいっぱい作れ!!」

と続けた。

RCサクセションが “来日” しているというのに大ホオルの客席の半分以上はなんと無人だったのである。

当時まだ小娘だった私はそのおかげで知人からタダ券を譲り受け、5列目あたり、ほぼ中央の席に立つことができた。そして「今宵の空席埋めるには手遅れだけれど、この場で一斉に繁殖始まったら面白い!」などと酒ビン片手に上機嫌なのだった。

肉眼で5分以上見つづけると白内障になりそうなまぶしいステエヂで、厚化粧もまばゆい彼は、いずこからともなく飛来したセクシイおぱんつを頭にかぶってお帽子にしたり、ひっくり返っておけつからクラッカアを発射したり、愉しさの四十八手をさんざっぱらやり尽くした挙句、ショウを終えた。

「夜をぶっ飛ばせ」を正しく具現化すると、ああなるのだな。いまでも私はそう思う。

愉しかったライヴのあと、物足りなさや終ってしまった淋しさが残るとたまらなく嫌なものだが、夜を100%ぶっ飛ばすと物足りなくも淋しくもなく、嫌な気持はどこにもないのだ。あれはほんとにいい夜だった。

いまとなってはタダ券をくれたのが誰かも、あの日の曲目も、自分が着ていた洋服も、飲んでいたお酒も、何ひとつ覚えてはいないけれど、とにかくものすごく愉しかったということだけは記憶に焼きついている。こんな記憶はめずらしい。

 

☆下品で可愛くシャイで、素敵に愉快な痛快絶倫野郎が地球を去る日が来るとは、考えてもみなかった。

今でもまだちょっとわからないままである。

馬車がやってくる ヤァ!ヤァ!ヤァ!

☆幼いころ、お風呂のお湯は釜をつなげた浴槽に水を入れて湧かしていた。湧かす燃料は石炭だった。

☆石炭はどうやって家に運ばれてくるか。馬車である。「1トン、お願いします。」などと電話で頼めば、石炭やさんのおじさんが馬車を駆って、車道のど真ん中をのんびりやってくる。そうしておじさんは毎度100キロほどちょろまかしては900キロくらいで1トンの料金を取ったりする。取られるほうは正確に計ることが不可能なので抗議のしようもないが、頼むたびに1トンの量がちがったのだと母が言っていた。そういういんちきがまかり通っていた土地であり時代だったのだろう。

☆馬車の馬は濃いチョコレエト色をした重種の年取った雄だったと思う(通常、馬車馬は雄である)。たいへんおとなしい馬で、おじさんがスコップで荷下ろししているあいだは黙々とそのへんの草を食べることに専念していた。

近所のコドモたちがめずらしがって大勢寄ってきて大騒ぎしてもはしゃいでも馬は落ち着き払っており、お調子者のコドモがわあわあいいながら恐る恐る草をあげても平気でむしゃむしゃ食べるだけだった。もちろん、コドモの手を噛んで怪我をさせるようなこともなかったし、いななく声など一度も聞いたことがなかった。よくできた偉い馬だったと思う。

臆病な私は、少し離れた物陰からひとり、馬の様子をそうっとうかがったものだった。私も草をあげたり触ったりしてみたかったが、馬のあまりの大きさに怖じ気づき、どうしてもそばへ行くことができなかったのである。

☆馬車馬のおなかの下には広げた布がぶら下げられていた。それが当時の私には悲しかったが、糞で道路を汚さないようにとの配慮だった。馬はいつもうつむき加減で淡々と荷車を引いていた。石炭やさんの馬車が、あの田舎町の最後の馬車だったのではないか。

☆私が最後に馬車を見たのは30年ほど前、この町の町はずれの、車の往来のまだない早朝の道のど真ん中であった。遠くから見たので何の馬車かはよくわからなかったが、あれは間違いなく馬車だった。時間的なことを考慮するとおそらく観光馬車ではなかっただろう。それ以来、私は観光目的でない馬車を一度も見ていないことになるのだが、いまの日本には観光馬車しか存在しないのだろうか。

石炭を運ぶ馬車はいまの世の中に必要のないものになったのだから仕方がない。そういうことだ。