私の5年前

☆あの日あのとき、私はアパアトの7階の自室に一人でいた。まず壁の一部、天井近くから「めりっ」というすごい音がしたかと思うとやがて部屋がゆっくりと揺れ始めた。地震がくると私は必らず波乗りのポオズをする(実際の波乗りは未体験)。経験上これで震度4まではわかるからだが、あの日は経験したことのない揺れ方だった。横揺れが徐々に大きくなってゆき、やがて建物ごと揺さぶられた。台所にぶら下げた調理道具や洗濯物のハンガアは静かな音を立てて長いこと揺れていた。

山勘だが、私が住む町はたぶん日本でいちばん地震が少ないと思う。たまの震度4がせいぜいだ。あの日も7階だから震度4程度に感じたが実際は3だろうと判断した。ただ時間とともにだんだんと激しくなる長時間の横揺れは、遠くでとんでもないことが起きていることを予感させるにはじゅうぶんだった。それが怖かった。

なんでもいいから情報が欲しいと思った。当時はスマホ所有者ではなかったし、テレビも捨てたあとだった。ラジオもない。とりあえずスーパー銭湯へ行っている交際相手に電話してみたがつながらない。しばらくしてやっとつながったが、地震の最中、彼はお湯に浸かっており、地震のことをまったく知らなかった。私の昼間の記憶はここで途切れている。

☆夕方あたりから彼の部屋へ行き、二人で並んでテレビを見つづけた。想像をはるかに超える衝撃的で恐ろしい映像の連続だった。テレビ局のスタジオの緊迫感がやけに嘘っぽく感じられた。わるい夢を見ているような気がしてもう見たくないのに目が離せない日が、余震とともに何日も続いた。そんなふうに半ばパニック状態で恐怖心からテレビにかじりつくのは9・11のアメリカ同時多発テロ事件以来のことだった。

東京大空襲と祖父

☆前にも書いたが、祖父は終戦前後の東京で警察官をしていた。私が小さいころから、大きくなっても、晩酌の席では警官になるまえの軍隊での話や警察時代の話を聞くことができた。酔った祖父は同じ話を何度もくりかえし、私はその都度いま初めて聞いたかのような顔をして聞き入った。それほど祖父の話が好きだった。

☆そんな祖父がただの一度も触れなかった話題がある。東京大空襲の話だ。祖母によると、東京大空襲のあと、祖父は一週間ほど家に帰らなかったらしい。

☆ネット上にある東京大空襲の画像を見てみると多くの黒焦げの遺体が積み重ねられているものが大半を占める。警官であった祖父はこれらの遺体の処理に追われに追われていたのだろう。超が付くほどオカルトだった祖父は、遺体以外の「何か」まで見てしまったかもしれない。オカルトなくせに暗闇と「おばけ」がからきし駄目な恐がりだったから、他の人よりも怖い思いをしたかもしれない。私がオトナになってから、夜勤明けに16人に闇討ちされて一人で応戦し生き延びた話をたった一度だけ聞いたが、なにしろそれ以上の修羅場だったことは間違いない。

☆若かった祖父はあのとき、どんな匂い、あるいはどんな温度・湿度の空気のなかで、何を見、何を聞き、何に触れ、それらをどう感じたのか。祖父が故人となったいまでは知るすべもないが、知ることができるなら知りたいと思う反面、へなちょこの私ごときが知らないほうがいいのだとも思う。きっと祖父は話さなかったのでなく、話せなかったのだ。

ナンパという不可思議な行為

☆「僕、これから家で晩ごはん作って食べるんですけど、来ませんか?」といかにも真面目そうなひとに真顔で言われた夕暮れ時。一面識もないひとである。突然のことにぽかんとしたがもちろん即座に断った。相手はあっさりひきさがってくれたが、自宅での食事に知らないひとを誘うのも、断られてあっさりひきさがるのも、どういう心理なのかわからなかった。あのとき私は三十を過ぎたばかりだった。

☆三十代のとき。まだ明るい時間、市中心部を歩いていたら突然行く手をさえぎり「どう?!」と言うひとが飛び出した。離れたところではお仲間が「スルー? スルー?」と騒いでいる。ぶかぶかのおずぼんの股間の位置が下に大きくずれている2人組であった。よく考えてから、あれはナンパだったのかもしれないとうっすら思うようなよくわからない出来事であった。

☆これも三十代。仕事帰りに夜の散歩をしていたら「ヒマだからセックスしない?」と自称AVのスカウトが声をかけてきた。宿に帰っても仲間とトランプするだけでヒマだから、と。「それだけの理由でセックスできるの?!」と聞き返してしまったが、彼は当たり前のようにうなづいていた。せっかくなのでAVのスカウト事情を聞き出したあと、丁重にお断り申し上げた。

☆まだ十代のころ、いかにもチンピラふうな車の窓から、いかにもチンピラふうな男が顔を出し、にやにや笑って「おい、おまえ、乗れ。」と言った。「おまえ」とは私のことである。昼下がりの閑静な住宅街、それも自宅のすぐそばであった。もちろん乗らなかったが。ヤクザが威張ることができたむかしむかしのお話である。

☆この手の話はこれだけではない。私はよほどバカで安く見える女だったのだろう。しかしいまの私は老人だ。老化を肯定する気はさらさらないが、もうナンパはおしまいだと思うと清々する。

啓蟄といえば

啓蟄の日ではなかったが、十年ほど前、冬眠から目覚めたばかりと思われるカエルに出くわしたことがあった。場所は東京S区。日が傾きかけた道端を半開きの目でゆっくりと歩く一匹のカエルがいた。鼻の先からお尻まで12、3cmもあったろうか。私が育った寒い土地では見かけない大きなカエルだった。

ためしに「初めまして。おはようございます。」「今日、起きたんですか?」「まだ寒くないですか?」「これからどちらへ?」などと静かに話しかけてみたのだが答えてはもらえず、カエルは黙々と歩き続けた。車の往来はけっこうあったし、歩道のない道路だったので、せっかく冬を越して起きたカエルが轢かれないようカエルと車との間を私は歩いた。カエルのテンポで歩いていた私はさぞかし変な人間だったにちがいない。

そうやって日が落ちる少し前まで、私はカエルと歩いた。どこへ行くのかわからないカエルに「じゃ、そろそろ帰ります。お気をつけて。さようなら。」と挨拶して途中で別れ、少し道に迷いながら私は人間の世界へと戻っていった。あのカエルはまだ元気で暮らしているのだろうか。

☆雪国では啓蟄の日は冬の第3コーナーと第4コーナーの中間くらい、要はただの真冬だ。こんな寒いところで冬眠するカエルなどいるのだろうか。もしもまた目覚めたばかりのカエルに遭遇することがあれば、やはりしつこくつきまといたいと思う。

(カエルはなんにも言わないけれど、きっと迷惑に思っていたにちがいない……。)

菊正ジャンキーの恐怖

☆私がコドモだったころ、菊正宗という日本酒のCMがあった。

☆おいしそうなお酒とお刺身などを交互に映し「菊正を飲むとうまいものが食べたくなる」「うまいものを食べると菊正が飲みたくなる」と落ち着いた男性のナレーションが入り、「〽︎や〜っぱり〜俺は〜〜菊正〜宗〜」と、なぜか女性歌手がド演歌調で唄ってCMは終る。

☆オトナになったある日、YちゃんKちゃん夫妻のお宅で愉しく雑談をくり広げていたとき、Yちゃんが「菊正ジャンキー」という言葉を口にした。私は「菊正」という単語も「ジャンキー」という単語も知っていたが、これらふたつを連結させるという発想は持っていなかったので仰天し、笑いに笑った。息が止まりそうだった。申し遅れたが、私は笑い死にするタイプである。

☆菊正ジャンキーとは「菊正を飲むとうまいものが食べたくなる」「うまいものを食べると菊正が飲みたくなる」「菊正を飲むとうまいものが食べたくなる」「うまいものを食べると菊正が飲みたくなる」という連鎖から逃れられなくなることをいうのだとYちゃんから教わった。同席していた友人たちはみんな知っていて笑いもしなかった。

☆それから十年ほど経った夏の夜、私は一人暮らしの部屋で音楽を聴いていた。親切な友人I君が貸してくれた初めて聴くレディオヘッドのCDだった。何度も通して聴くうち気に入りの曲が見つかる。聴く順番も重要で、この曲を聴くと次にあの曲が聴きたくなり、次はこれ、その次はこれ、と4曲ほどを延々くりかえし、止まらなくなってしまった。「このままいけば今夜は眠れないのではないか。」と不安に陥った瞬間、私の腦裡を突然よぎった「菊正ジャンキー」という言葉。

「そうか、これか!」と一人で納得し、長いことのたうちまわっておなかがよじれるほどげらげら笑っていた。またしても息が止まりそうだった。薄い壁ひとつ挟んだ隣室の住人はなんの騒ぎと思っただろう。警察に通報されなくてほんとによかった。

あなたと私の境界線

☆「俺、気持いい=お前、気持いい」という破壊的な誤解がこの世にはある。

☆そのおかげで、私は性交で汗をかいたことがなかった。相手は海のような大汗をかいているが、私の躯は冷たく、寒いくらいが普通で、それに気づいた相手は不思議がった。早く終らないかと時計を眺めて退屈している女が汗などかくはずもない。

みなさん、見事に自慰のような性交をくり広げていた。ご自分の性慾に夢中で、まさか私が退屈しているとは夢にも思わなかっただろう。人類のすけべ心に落ち着きを求めても無駄だし、適当に相手に合わせて下手な芝居をしていた私もいけなかったのだとは思う。結局どうでもよかったのだ、性交など疲労を生むお遊戯でしかなかったのだから。

お遊戯がやっと終ったと思ったら今度は「いった? ねえ、いった?」というバカバカしい質問を何度もされてうんざりする。それなのに何度も交わる私がわるかったのだ。人間の腕まくら目当てに性交などしなければよかった、ただそれだけの話だ。若気の至りと軽蔑していただきたい。

☆自分と他人を区別するのは簡単そうでむつかしい。全世界が自分であるかのように感じるおめでたいひとも中にはいるかもしれない。自分のものは自分のもの、彼のものも彼女のものも、きみのものもあなたのものもお前のものも自分のもの。そして自分がそんなふうに感じているとはきっと思っていない、そういう迷惑なひとだ。

☆ある時期から私は自分と他人との間に太くて濃い線を引くのに必死だ。これは自分に課した義務である。相手が親しい友達でも、いや、親しければ親しいほど、太くて濃い線を必死で引く。何なら段差もつけたい。この境目はとにかく必要だ。

☆成長の段階で迷惑なオトナたちと接してきたためか、私はこの線引きには非常にうるさい。親切な顔で迷惑なことをしてくれるひとが大嫌いだから、自分もそうならないよう必死なのだ。ちゃんとできていればよいのだが。

かわいそうだから可愛い、という怖くて迷惑な話

☆ひとのかわいそうな様子を見て「可愛い」と喜ぶ性質をもつひとは非常に困ったひとである。

☆父がそういうひとだった。まだ私が幼かったころ、たびたび高熱にうなされる私の顔をのぞきこんでは「かわいそうに…。」とさもうれしそうに言う父の顔に困惑したものだった。いくらコドモでもその表情でその言葉は言わないだろうと気がつく。

私が傷を作ったと母から聞けば「見せて、見せて、見せて、見せて。」と笑顔でしつこく迫り来る。彼は傷の内側を見たいのだ。嫌だと言えば何をされるかわからない恐怖から無言でうつむいていると、コドモのやわ肌をうれしそうに鷲づかみにし、せっかく閉じかけた小さな傷を開いてしまう。痛くて怖くてとても迷惑だった。

☆父は優しい少年だった。家族のセーターを編む毛糸を作るため、父の家では羊を何頭か飼っていた。一頭の仔羊を親から離したある夜、仔羊は淋しげに泣き続けたという。その声があまりにもかわいそうで聞いていられなくなった父は寝床を抜け出すと羊小屋へ忍んで行き、泣く仔羊をバスタオルでくるんで一晩じゅう抱いて過ごしたそうだ。抱っこされた仔羊はおとなしく眠った。なかなかできることではないと思う。

☆優しかった少年は、なぜ鬼畜な父親になったのだろうか。

☆現在の父は年を取り、不治の病にかかったせいか人生の終りを考え、弱気になり枯れている。それが功を奏してか、相変らず口数は多いが話しやすい親切なひとになった。まるで鬼畜時代がなかったかのようである。ただ、鬼畜時代の反省や後悔はなさそうだ。

両親には友人が一人もなく、親しい訪問者はほとんど私だけで、行けば必ず歓迎してくれるが、私はむかしの両親とは別のひとたちだと思って接している。多少の警戒心とともに。

思春期をぶっとばせ

☆「だって将来、油まみれで働くの、いやだもん。」

東京の有名大学を受験しようとしていたらしい上級生があるときこう言った。町でいちばんの進学校に通っていたハンサムな彼は、もともと賢いうえに予備校通いもして家でもたくさん勉強していたのだろう。なぜそんなにたくさん勉強するのか、彼に尋ねてみたところ、冒頭の言葉が返ってきたのだった。目の前の少年がオトナになった自分をきちんと想像していることに、私は驚きを禁じ得なかった。

☆いまにして思えば、彼は必死で自分の未来を作ろうとし、そこへたどり着くための努力を惜しまなかったのだとわかる。生きてゆくには何らかの形で勝ち上がらなければならず、勝ち上がる手段として彼はまず勉強を選んだのだったと。そうして彼はまず優等生になった。しかしこんなことは現役の中学生にでもわかる当たり前のことなのだろうとも思う現在の私だ。

☆いっぽう同じころ私が漠然と思い描いた未来はといえば、30歳になる前に車で単独事故を起こし即死することだけだった。泥酔して時速100キロで立ち木に激突することだけが十代のその日その日を生きる希望だった。未来など想像しても仕方がない人生で未来を想像することを覚えるわけもない。貧困なるイマヂネエションの源には心当たりが思い切りあるが、まさか自分が生き続けるなどとは夢にも思っていなかった。そういう大馬鹿者がだらだらと無為に長生きをした結果、現在は病気持ちの中途半端なおばあさん、すなわち粗大ごみというわけだ。これは悪夢でしかない。

この世に生まれてはならないひとというのもいるのである。

☆いまごろ彼は毎日々々スーツを着て、手堅い会社のちょっとした重役にでも納まって、女房コドモに「かっこいい!」とはやし立てられながら少年時代から得意だったギターで親父バンドでも結成し、高価な楽器でエリック・クラプトンなんぞ律儀にコピーしているにちがいない。いや、そう思いたい。終身雇用で年功序列の出世街道をまっしぐら。それが、彼が思い描いた未来だったはずだからだ。

こんにちわ、シネマ倶楽部

☆のちに「遊興団体」(笑)と化したシネマ倶楽部は、自主映画の監督Kちゃんが作った、もともとは映画を作るための集団だった。

☆二十歳そこそこの私が某バンド(もちろん無名)に在籍したとき、とあるハコによく出入りしていた。Kちゃんはそのハコのスタッフだった。知り合いではなかったがお互いの存在は知っていたと思う。

☆当時、なぜか私は自分と似た髪型の人を探していた。同類や仲間を求めていたのかもしれない。しかしどこにもいなかった。バブルの時代にマーク・ボランのようなカーリーヘアーの人間は絶滅していたのだろうか。

☆そこに流星のごとく現れたのがカーリーヘアーのKちゃんだった。おまけに彼は夢のような美しい容貌の持ち主だった。

☆ハコの仕事でチケットをもいでいる彼を物陰からじいっと見たことがあった。出歯亀している私の頭のなかは空白である。人ひとりの頭をパーにさせるほどの美しさだ。絶対にお近付きになろう、と心に誓った夜だった。

☆冬の午後、ステンシルしたり焼いたり切ったり貼ったりして自分のバンドのライヴのポスターを作り、ハコの通路に貼ってくれるようわざわざ一人で頼みに行った。もちろんお目当てはKちゃんである。

行ってみるとハコの事務室からなにやら、カチャッ、カチャッ、と間を置いた変な音が聞えてくる。ドアが開いていたのでそうっとのぞいてみると、机に向うKちゃんの後ろ姿があった。が、豊かな巻き毛で手元は見えない。「あのー…。」と声をかけると、「あ〝。」とかなんとか言って振り向いた彼の手元にはワープロがあり、例の間を置いたカチャッ、カチャッという音はタイピングの音であることがわかった。

☆彼は私がいつも作るポスターやらチラシやらをまとめて褒めてくれたうえ、彼がこのハコで催す上映会のチケットを4枚、バンドのメンバーの分までくれた。紫色のチケットには黒インクでジミヘンが印刷されていた。

☆これがKちゃんと私との(少なくとも私にとっては)運命的な出会いである。二人とも、まだ鼻血が吹き出るほど若かった。

競馬のない人生は影のない馬

☆20年来の競馬好きだが、わけあって何年か競馬断ちをしていた時期があったため、それ以来いまだに浦島太郎状態から抜け出せずにいる。

それまで競馬の本を月に数冊買って熟読していたのが、本も読まない、競馬中継(これもなつかしい言葉になってしまった)も見ないのだから、そりゃあ重症の浦島太郎にもなるだろう。

なにしろ好きな馬はシービークロスタマモクロス、お気に入りのレースはツインターボオールカマー七夕賞ブロードアピール根岸ステークス等々、情報はなかなか更新されず、毎年のクラシックは勝った馬の名前すら覚える間もなく過ぎてゆく。

超大物のいない現在、馬の名前も顔も覚えられない。勝負服もずいぶん忘れた。玉手箱のふたは開けっ放しである。

☆それでも週末ごとに競馬をテレビ観戦すると、何となくいい。いちばん好きなのは、GⅠで馬群が4コーナーを廻ってからゴールするまでだ。

馬の気合い、ジョッキーの執念、馬券を買った人たちの煩悩にまみれた歓声などといった独特の「何か」が、小さなテレビの画面とスピーカーから伝わってくる。その瞬間、私の背筋はざわざわっと騒がしくなる。

☆GⅠではないけれど、この週末も競馬を見よう。テレビの競馬番組は確実につまらなくなってきてはいるけれども、それでも競馬をテレビ観戦しようと思う。しゃべるのがだいぶ上手になったアンカツさんの解説も愉快だし、毎度あまり当たらない予想を展開する井崎氏など、顔を見ているだけでうれしい。やはり私の人生には競馬があったほうがいい。

コドモの慾望

☆もしもコドモのころ慾しかったもの全部を手に入れていたら、当たり前だが、確実に大変なことになったはずだ。

☆まず各種化石、恐竜(生前)、サターンロケット、きれいな石ころ、お姫様(国産)、お城(洋もの)、おやつ、つぼ振りのおねいさん、アメ車、巨大な積み木、曾祖母のお宿、犬、地平線と水平線、太陽、星、コロポックル、何軒かの家、月、イグルー、雲、過去帖、祖父母宅の箪笥の上の水色の棒、(お菓子じゃないほうをお菓子と誤解した)スナック、むかしむかしの地球、月面車、人工衛星、等々……。

☆言うまでもなく置き場所に困るし、というよりもまず置き場所がないし、となり近所どころでない太陽系規模で世の中全体に迷惑をかけることになったろう。しかしそれも愉快なことかもしれない。いや、迷惑なものはやはり迷惑だ。でもすべて手に入れられたらどんなによかったろう。ひとの迷惑などかえりみずものを持て余し困ることができたらどんなに愉しかったろう。

☆コドモのころはただただ手に入れたかったのだ。とにかく慾しくてたまらなかったのだ。どのコドモもそうかもしれないが、物慾の塊であったのだった。物慾の大きさはそのまま生命力の強さを意味する。コドモの私は生命力がみなぎっていたのだ。

☆いまの私に物慾はほとんどなく、枯れて乾いた世界に独りいる。

☆生きるとは慾することであるとブラッドベリが書いていた。こんな私にも生命力みなぎる時期がたしかにあったのはよい思い出である。

東條英機と布団

☆祖父は終戦前後の何年間かを警視庁の警官として過ごしたひとであった。それだけに一風変ったエピソオドの持ち主で、普段は口数が少ないが酔うと饒舌になり面白い話が聞けるので、私は小さなころからオトナになっても祖父の晩酌に同席するのが大好きだった。

☆いつだったか、祖父が警察署の仮眠室の話をしたことがあった。戦争中で物がなく、お夜食がおたくわん一本一気食いのときもあったりした(喉が渇いて大変だったらしい)くらいだから、仮眠用の布団の側生地も少しずつはがし取ってはみんなで雑巾として使っていたという。そんなことを繰り返すうち、最終的にお巡りさんたちは、もと布団だった綿のかたまりに挟まって仮眠をとることになってしまっていた。

☆ある夜勤の最中、突然、ときの総理大臣・東條英機が現れ署内を視察してまわった。もちろん仮眠室の様子もだ。側生地がまったくなくなった何組もの「布団だったもの」を見て東條は静かにたずねた。

「これは何だ?」

緊張した警官が答える。

「…布団です!」

「綿じゃないか!!」と東條はすかさず正しく反論し、後日新しい布団一式を届けさせたそうだ。

☆「東條は…いいひとだよ。」

酔った祖父がぽつりとつぶやいた。

異次元からの訪問者

☆幼いころ、家にときおり門附がやってきた。ひとに話しても信用してもらえなかったが、じっさいに門附はやってきたのだ。

☆あるどしゃ降りの日、玄関に一人の虚無僧が現れた。でっかいくずかごみたいなものを頭にかぶり、ずぶ濡れの黒いゴム引きマントを着て、尺八を吹いていた。こういうひとはお金を渡さない限り出てゆかないのだが、コドモの私にはトリッピーで不思議な出来事でしかなく、少し怖いが帰ってほしくなかった。しかし母はさっさとお金を渡してしまった。

☆お祭りのときには鳥追のお姐さんが登場した。着物姿で手甲を着け編み笠をかぶり、首から三味線を下げていた。少しだけ見える顔は白粉が濃かった。どういうわけか演奏の記憶はない。

☆雪解けの時期に出現したのは七福神のなかの誰かだった。母がとくべつ急いでお金を渡すと「は、めでたれなあ!」と七福神の誰かふうと思われるポオズをとってから出て行った。私はもっと見ていたかった。

☆私の記憶に残っているのは残念ながらこれくらいである。

☆門附ではないが、ときどき出没していたのが反物売りの中国人「ちんさん」であった。家に上がりこんでお茶を飲みお茶菓子を喰らい、いかにも安っぽい反物を売りつけようとする。祖母は着物で暮らしてはいたが着るものは間に合っていたし、母は着物は不要であるし、毎度お断りしていた。

すると広げた荷物をまとめて帰る「ちんさん」はゼンジー北京と同じ抑揚で、

「奥さん、けちね!」

と言い放ち乱暴にドアを閉め去ってゆくのであった。

☆こんなひとたちが時おり現れたのは、あまりにも田舎で玄関に鍵をかける習慣がなかった土地柄もあったと思う。鍵をかけたら村八分にされたかもしれない。私の家も、夜寝るときと旅行のとき以外は無施錠だった。

☆いまは宅配やさん以外は誰が来てもすべて無視しているが、もし門附が来たら……。

そのときは千円札を一枚にぎりしめてドアを開けてしまいそうな気がする。

スーパーマーケットは楽園

9歳のとき、小さな田舎からある程度まとまった人口のいる地方都市に移り住んだ。近所には大きなお店、世に言うスーパーマーケットがあった。母に連れられて行ってみると、ものすごい量と種類の品物に圧倒された。そしてトリップしたかのようにそれらの品物を無言で見て歩いた。

コドモ用の百科事典で見たことのある小瓶のヨーグルト、1リットル入りの大きな牛乳パック、変な色の乳酸菌飲料、コーヒー豆を挽く機械、パック詰めにされて値段をつけられ変わり果てた姿の甘エビ、オトナの男のひと用のすけべな漫画の本、文房具コーナーのごく実用的なメモ帳、ケロッグの甘いシリアル、等々。田舎暮らしでは見たこともないものばかりだった。しかも定価より安い値段で売られているではないか! 幼い私はお店がちゃんと儲かるのかを心配した。

そのお店はずいぶんむかしになくなってしまったが、私は未だにスーパーマーケットが好きである。長居をして店内をくまなく見てまわりたい。とくにおやつのコーナーは素晴らしい。食餌制限があるため食べられるものはほとんどないが、「ちくしょう。」と呪いの言葉を吐き捨てながら眺めるだけでも精神衛生上よろしいのだ。

もしもよその町へ行ったならスーパーマーケットに立ち寄り、目からビイムを出して一つ一つの品物を見てまわりたい。そこには必ず見たことのないものがあるはずだ。

ああ、どこでもいいからスーパーマーケットを時間無制限でぶらぶらとほっつき歩きたい。

女の子はみんなの幻覚

☆幼いころから自分を「女の子」だと思ったことが一度もない人生だった。性別:女。それだけだ。

☆女の子呼ばわりされるのにも違和感しか抱かなかった。両親、とくに父親の訛りがきつく、非常に気持のわるい抑揚で「女の子」と言っていたことも影響しているかもしれない。その父が私を「お父さんっ子」と勘違いし、男の子の要素と女の子の要素の両方を要求するので幼い私は混乱していた。父と遊ぶには男の子にならねばならず、それ以外のときは「女の子のくせに」と罵られるのだ。

☆自分の外見をとてつもなく醜いと思っていたから、余計に女の子と言われるのに抵抗があった。女の子はある程度以上は可愛くなければならないと考えていたためだ。保育所などで可愛い女の子を見てしまったら、彼女たちと自分が同じ種族だとはとても思えなかった。

☆十代、二十代のころも、女の子と言われるのが嫌だった。性別:女。それで何か不都合なことでもあるのか。名前でなく、女でもなく女性でもなく「女の子」と呼ばれるのは、世の中と男たちから人格を無視され変な型をはめられているような気がして気持がわるかった。

☆小さい女の子は「女の子」だが、(ある程度)若い女まで「女の子」と呼ぶことに関してはいまだにしっくりこない。同性同士でもだ。

☆「女の子」とは性別を表す言葉でなく、女の子という「種族」を指していうのだと思っている。このひとたちは生まれてから死ぬまで女の子なのだ。たとえ子を設けようが女の子なのである。そういうひとたちを初めて見たときの感激を私は忘れない。