てふてふとさなぎ

☆「クラスに一人はいる未熟児みたいな男子」という言い方をした男の人がいた。雰囲気はわかるし、初めて聞く表現でもあったので、私は反射的に笑った。しかしそれが明らかな侮蔑をも表していると気づいたとき、笑ったことを後悔した。

 

☆私はあまり学校へは行っていないし、学校でもどちらかというと浮いた存在だった。そういう「学校向き」でないコドモではあったが、席替えでどんなコドモが隣りにきても必ず話しかけるコドモであった。誰も声を聞いたことがないほど無口な男子にも、委細構わず話しかけた。さぞや迷惑なことだったろう。もちろん「未熟児みたいな男子」にも普通に話しかけた。優等生にもである。ヤンキーや体育会系は放っておいてもぺらぺら喋っていた。

 

☆小さなころから、クラスで目立つコドモよりも、おとなしくて目立たないコドモのほうが、意外と趣味の世界に生きていたり、温厚で話しやすかったりして好きだった。そういうコドモを発見するたび「人って、第一印象じゃわからないものだな」と感じ入ったものだった。

 

☆中学一年のとき、たまたま席が近かったS君は、内気でおとなしい少年だったが漫画が好きで、私も大好きだった『マカロニほうれん荘』で盛り上がると彼はにこにこ笑い、静かだが饒舌になった。何のきっかけか、むかしの漫画の話になり、私が「見てみたいなあ」と言うと、翌日の朝、貴重な『のらくろ』や『クリちゃん』『フクちゃん』を惜しみなく貸してくれるのだった。むかしの本なので、傷めないように扱い、緊張してそうっと読み、翌日には返却した。そういえば彼はフクちゃんに少し似ていた。

 

S君は「未熟児」ではなかったが、日々成長を続ける少年たちの中では少しだけコドモっぽいほうだったかもしれない。だが、もの静かで親切に楽しく接してくれた。男女交際はなかったが、とても好ましい人物だった。いまでも古い漫画の記憶はS君の記憶と結びついている。

 

☆人間を派手な外見や雰囲気などで選ぶのもわるくはないが、あまり目立たない控えめな人物に焦点を当てると愉快なことが待っている可能性が高い、というのがいまでも私の持論だ。

 

 

 

 

 

民放FMラヂオデイズ

☆中学生のとき、地元で初めての民放FMが開局した。やっと与えられた個室で、やっと買ってもらったステレオ式の「ラジカセ」を、夜は枕元に置き、休日の昼間は窓ぎわなどに移動させ、欧米の音楽、古い音楽、ニュース的要素の強い情報番組など、むさぼるように聞いたものだった。最初に「AIDS」のことを知ったのも、デイヴィッド・ボウイーの『ジギー・スターダスト』の宣伝が気になって仕方がなかったのも民放FMだった。

☆高校へ入学した直後、私は心臓を患った。外を普通に歩くことも禁じられ、走るなどもってのほか。医者のいうとおりに休学するよりほかなかった。寝込むようなことはなかったが初めのうちは家に缶詰で、ひと月ほど経ったころだろうか、近所まで短時間でと言う条件つきで外出の許可が下りた。季節は大好きな春、しかも遊びまわりたい盛りの16歳だというのに、外に出られるのはごく近所の小さな書店までという、少し淋しい自宅療養生活だった。

もともと学校とは折り合いがわるく、小学校に入学してから中学校を卒業するまでの9年間、ほぼ毎日、空腹による吐き気と激しい胃痛に悩まされ続けたが、学校へ行かなくなると、大好きだが胃痛の元だった牛乳を二日で1リットル飲めるようになった。

☆そんな日々の午前中、朝食を済ませてコドモ部屋へ引っ込んだあとのお楽しみは民放FMだった。当時、十時半ごろから、いわゆるオールディーズを毎日3曲ずつ聴かせる番組があった。おだやかな優しい声のおじさんが静かに曲を紹介したあと3曲たてつづけに流すだけの15分ほどの番組であったが、私はたいそう楽しみにしていた。

中学校を卒業したあとの長い春休みに、テレビで映画『アメリカン・グラフィティ』と『卒業』を見る幸運に恵まれた。その影響もあってか、私は古いポップ・ミュージックに興味津々だった。そのころから、どの時代のどんな音楽を聴くかは自分で決めることにしていたので、最新のヒット・チャートよりも、優しい声のおじさんのオールディーズ番組のほうがはるかに魅力的だったのだ。毎日の3曲は確実に私の耳の栄養になっていった。

☆ところで、あのころ世界はなぜあんなに光に満ちていたのだろう。それは現在の世界が輝きを失ったのでなく、単に私が老化したせいなのだと思う。世界は相変らず美しい「はず」だ。

百歳

 

☆今日は母方の祖父の命日である。存命であればちょうど百歳だ。

 

☆祖父は酒好きで、働き盛りのころはビール、日本酒、ウィスキーといろいろ飲んだが、晩年はもっぱら大瓶の安いウィスキーを冷たい麦茶で割って晩酌としていた。

深酒をして、お気に入りの若山牧水の歌、「それほどにうまきかとひとの問ひたらば 何と答へむこの酒の味」をときどきうれしそうに諳んじた場面もなつかしい。

 

私の好きなジャックダニエルズやテキイラや赤ワインを持ち込んだらどんな顔をしただろうかと考えることがいまでもある。ソーダ水やトニックウォーターも持ち込んで、二人で乾杯して美味いの不味いのと喋ったら楽しかったかもしれないと思ってしまうのだ。

 

両親は酒嫌いでまったくの下戸だが、孫の私はお酒が好きで、バカみたいに本を読むところも物持ちがいいところも祖父に似ている。卵に目鼻のひな人形のような顔だった祖父とはまったく似ていなかったが、このごろ少し似てきた気がする。

 

☆今夜でなくてもいいからたまには祖父の登場する夢を見たい。

 

 

記憶の遠近感

☆むかしむかし、秋から冬にかけて毎年来ていた、

「焼芋っ。     一個百円っ。     焼芋っ。     一個百円っ。」

の焼き芋やさんのおじさんの呼び声がなつかしい。

このおじさん、夏場は夏場で、

「甘〜い甘い、   スイカに、   メ ・ ロ ・ ン ♡」

の声とともにやってきたものだったが、いまはもう聞くことはない。

おじさんはどこでどうしているのだろう。 今さらながら、おじさんの幸運を祈って止まない。

☆このあいだ閉店した百貨店の地下の奥にはむかしから一軒のお魚やさんがあった。並べられたお魚は大物演歌歌手がステエヂに登場するときのような白くて冷たい煙におおわれていた。

むかしむかし、このお店でさまざまな海産物を眺めるのが好きだったのだが、生まれて初めてミル貝がだらしなく横たわるのを目撃したときは、恐怖のあまり黒いミニのタイトスカアトに黒いストッキングとローヒールといういでたちで人目もはばからず逃げ出した。もちろん全力疾走である。地階の端っこまで走ってやっと立ち止まった。それ以来、歌謡なんとかショウみたいなこのお魚やさんへ行く際は、だらしないミル貝がいないかどうかを遠巻きに確認してからそばに寄って見学することにしたのだった。

ミル貝はほんとに恐ろしかった。

☆中年のころ、徒歩15分ほどの距離にある大型スーパーマーケットでおやつのお買物をした。当時新発売の、ラズベリー味のビターチョコレエトも一箱買った。

お会計が済んで荷物をお買物袋に詰め替えるときからラズベリーのチョコレエトを食べはじめた。爆発的にんまかった。エスカレエタアで地上に出る間も、外に出てからもラズベリーのチョコレエトを食べ続けた結果、自宅に到着するはるか前に食べ終えてしまった。もう二箱買わなかったことを激しく悔やんだが後の祭りである。部屋に到着するまで歩きながら食べ続けていたかった。

後の祭りといえば、その後、私の心拍数は予定どおりはね上がった。いったい何度チョコの一気喰いをしては心拍数を急激に上げる経験をしてきたことか。人は皆、カフェイン類を一気に摂ると心拍数がはね上がるようにできているのだろうか。

たしかその夜は心臓が苦しいまま重い躯を引きずってPANTAのライヴへ行ったはずだ。友人I君と、PANTAの曲のすごい歌詞、「気がついたらお姉さんの首を絞めて殺してしまっていた」みたいな歌詞に死ぬほど笑いをこらえながら見ていた気がする。

☆あんなこともこんなことも、むかしむかしの出来事だ。

万引き観光

☆何年か前に見た、非常に嫌な光景の話である。

☆夜、近所の小さなコンビニに入ると、すれちがいに夫婦らしき小柄な年配の男女二人連れが店を出るところだった。見た目からの推測だが、彼らは中国語を話すひとたちに見えた。その夫婦はそれぞれの手に一つずつお菓子か何かの小さな商品を持ち、いかにもいやしいうす笑いを浮かべながら出口に向っていた。そこはレジからは完全に死角になっており、彼らの手にある品物はレジを通していないはずだ。そんな場面を私ひとりが目撃してしまい、しかも何の対処もできず非常に後味のわるい思いをした。

☆この町にも中国語を話す観光客は増えている。以前は団体客ばかりで、見たこともないような原色の無地の洋服をおよそ考えがたい色合わせで上下着用した集団が我がもの顔で歩行者天国の道路をふさぎ、わめくように会話していた。それが最近は、比較的洗練された身なりから推察できるとおり、いかにも経済的に余裕のありそうな、おもに都市部に暮らしているであろう家族連れをよく見かけるようになっており、騒々しいひとたちはいつの間にか消えていた。現在の、中国語を話す観光客と比べれば私たち田舎町の市民のほうが野暮ったいぐらいではないだろうか。

☆日常生活よりもより多くのお金を使わざるを得ないのが観光だ。事情が許すかぎり財布のひもをゆるめるのがよいと思う。逆にいえば、散財できないときは観光するときではない。散財どころか万引きする者はただの犯罪者だ。そういう方々にはぜひ観光しないでもらいたい。

家庭内ロックンロオラア誕生前の長い夜の始まりの日

☆30年前の今日、私の人生の中心がロックンロオルになった。ある人物に出会い、魅力的なロックンロオルを浴びるように聴かせてもらい、それらを片っ端から気に入って四六時中聴くようになったのだった。まるで水をぶっかけられたスポンヂのごとく、「あ!」という間もなくロックンロオルに溺れてそれっきりである。

もともと音楽は好きで、ソルの「雨だれ」を聴きたいがために得意の道草を喰わず一目散に帰宅することもあるような小学生だったし、ただレコードを聴く、という遊びのメニューは幼少期からあったが、どんな音楽を聴くかは30年前のこの日に決まった。

耳のピントが定まって以来、ロックンロオルばかり聴いてきたわけだが、思春期までにテレビやラジオで聴いたかつての「流行歌」も自然と大切に思うようになっていった。なにしろ何もわからない人生の黎明期に私を楽しませてくれた音楽にはある種の「恩」を感じないわけにはゆかない。ロックンロオルとはやはり区別はするが古い流行歌もなつかしく聴いている。

また、そのほかのジャンルの音楽もいろいろと楽しむようになった。これはロックンロオルの聴きすぎの効用というか副作用というか、一つのジャンルをブラジル付近まで掘ってゆくと、いろいろなジャンルが自動的に付いてきたという感じである。

こんな楽しいものがあるからいつまでも死なずにだらしなく生きているのだ。そういう意味では音楽は諸悪の根源といえるが、やはりどうにもこうにも好きなのだ、ロックンロオル。

百貨店のない町になるとき

☆十代のころ、絵の具のチューブに入ったド紫色の口紅を買った百貨店は、だいぶ前にこの町から撤退した。そのときに初めて百貨店の閉店セールというものを体験した。閉店前日だったと記憶しているが、これがこの町かと思うくらいの人混みだった。それとは対照的にすっからかんになった店内の様子を見て、来るんじゃなかったと後悔した。これで町には百貨店が一軒になってしまった。

☆そもそも市中心部へ行くひとが減って久しい。普段いるのは老人と観光の中国人と下校途中の高校生くらいなものである。

☆田舎は車社会だ。車がないことは死を意味する。駐車料金のかかる市中心部の百貨店へわざわざ行かなくても、郊外のイオンなどのほうが無料の広い駐車場があるし、バラエティに富んだ目新しいお店でゆっくりお買物をして、ついでに気軽なお食事もできる。おまけにそういう施設は建物も比較的新しい。古くさい百貨店へ行くよりは、より気軽で新しい場所へ行くことを選ぶのだろう。それはこの辺のひとびとの習性でもある。いや、そもそも日本じゅうがそういうひとびとであふれかえっているのかもしれない。

☆現在閉店セール中の百貨店へ行ってみると、商品を売り尽くしている真っ最中だった。そんなことはわかりきっていたが、変りはてた売り場を見ると、親しいひとが亡くなって形見分けに押しかけたわるい親戚になったような気分になり、とてもお買物する気になれず、淋しい気持だけ抱えて手ぶらで帰ってしまった。百貨店から手ぶらで帰るひとが多いから閉店セールをする事態に陥っているというのに。せめて地下の食堂へは行きたいと思っている。

 

二度と行けなかった場所の話

☆免許とりたてのころ、夜ごと浮かれて父の車を駆っては市内をぶらぶら散歩していた。車はどんどん運転しろという父の方針を最大限悪用してのことだった。パワステでもないマニュアル車、しかも典型的なおっさん車の色・形であったが、うら若かった私には初心者マークをつけた、いかにも借り物に見えるかっこわるい車がお似合いだった。

☆ある風の強い夜、自宅から離れた国道をひとり走っていたのだが、左に派手な美容院のある交差点でなんとなく右折しそのまましばらく直進したところ、突然ひらけた場所に出た。そこは舗装されておらず、街灯もなく真っ暗で、おとぎ話の魔女が棲むような、とんがり屋根がいくつかある大きなお屋敷が一軒建っていた。空には月も星も見えず、背の高い木が強風に枝葉を揺さぶられているだけだった。私は車を停めて窓を開け、その魅惑的な光景を目からビームを出しつつ見つめ「いいとこ見っけ! またここへ来よう!!」と考えていた。

☆何日かして、またあのお屋敷を見ようとわくわくしながら同じコースを走った。が、どういうわけかあの場所へたどり着けない。驚いて何度もあの夜と同じ道順で走ってみたが、なにしろ簡単な道順だ、間違っているとは思えない。それなのにどうしてもあの場所に出られないのである。

☆もしかしたら私の単なる勘違いだったのかもしれない。道しるべだったあの派手な美容院もいつのまにかなくなり、私も車を運転しなくなり、もう確かめるすべもなくなったが、あれは一体なんだったのか、私が見たものはなんだったのだろうといまでも不思議に思う出来事だ。

 

 

☆追記

先日、市内の道に詳しいひとにこのことを話すと、むかしからあの辺りにひらけた場所はないとのことだった。

 

はじめての夜道のひとり歩きのこと

☆あれはおそらく中学一年の夏休み、近所の盆踊りの夜に人生初の「夜間外出」の許可がおりた。独裁者気取りの両親の気まぐれだ。

☆私は夜の外出に憧れていた。夜に関する知識といえば、黒い空に月と星があることくらいだったが、それ以外の「夜」も見てみたかったのだ。学校では、塾通いのよその子たちがよく「ゆうべの話」をしていたけれども、コドモを塾に通わせる経済力のない(または貯蓄に夢中で塾どころでない)家庭だったせいもあり、毎日夕方5時から家に閉じ込められていたのだった。

☆さて盆踊りの三日間、私は一人きりでやたらめったら近所をうろつきまわった。盆踊りに参加したいわけでもなく、そうかといって行く当てもなく、つるむ相手もない。さんざさまよった挙げ句、気がつけば街灯もまばらな柳並木に立っていた。

そんなときに限って、幼いころ祖母から「柳の下にはユーレイがつきもの」と聞かされていたことを思いだしてしまい、「柳一本につきユーレイ一名いたらどうしよう。」と足がすくんだが、その線で行くと道の両端がユーレイだらけというたいへんにぎやかなことになる。じっさいにはユーレイは一名も現れず、三日のあいだ、幸いなことに変なおじさんなどの危険な人類にも遭遇しなかったが、私が見てみたかった「夜」を発見することはとうとうできなかった。

☆それからもう少し大きくなって「見てみたかった夜」を見ることはできた。何のことはない、いわゆる繁華街、ネオン街といった、明るい電飾で夜が飾りつけられている風景である。しかし飲み屋さんへゆく習慣はついぞつかなかった。ああいった状況でお酒を飲む必然性が理解できなかったのだ。夜の選択肢は、部屋でひとり本を読んだり映画を観たり音楽を聴いたり作ったりするか、ライヴハウスへ出かけて酔っ払うかのどちらかだった。

☆あの日から現在に至るまで、夜の外出は好きだが夜道のひとり歩きは嫌いである。

祖母の茶飲み話

☆祖父もだが祖母も喫煙者で、夫婦そろってフィルターのない「しんせい」を吸っていた。祖父母は喫煙することを「煙草をのむ」といい、祖母はよく煙を輪っかにして幼い私を楽しませてくれた。受動喫煙上等であった。

 

☆祖母は小学校に上がるか上がらないかの小さな私を「泉鏡花小泉八雲は怖くて面白いぞお」と何度も誘惑した。結局私は、小泉八雲を小学五年のときに、泉鏡花は二十代半ばに読み、どちらもとても好きになった。

 

☆同じころ、夕方のテレビで、当時『変身! サマンサ』という題名で放映されていた、のちの『奥様は魔女』が非常に面白いと勧められた。祖母はエンドラという派手な衣裳の登場人物が気に入りだった。お相撲を見ても取り組みより行司の派手な衣裳についてよくコメントした。彼女は食うに困らないどころか着道楽なコドモ時代を過しており、着ていた着物の鮮明な記憶を語った。

 

☆当時のテレビは午後になると時代劇の再放送を毎日やっていた気がする。時代劇の好きな祖母は当然かたっぱしから見る。私もつきあっていっしょに見ているうちに時代劇を好きになった。が、コドモでバカなので時代劇の時代設定を現代だと勘違いし、しかもフィクションだと思いこみ、オトナになったらつぼ振りのおねいさんや舞妓はん、芸者さんになろうと本気で考えていた。また金ピカのお殿様はそこいらにいるのだと思って近所に探しに行ったりした。それもこれも祖母の時代劇好きの影響だった。

 

☆大正生まれの祖父母と昭和生まれの両親は同じものを指して別の言い方をすることがあった。

家で両親が「布団を敷く」と言うのを、祖父母は「床(とこ)をとる」と言った。両親が「テーブル」「味噌汁」と呼ぶものを祖父母は「お膳」「おみおつけ」と呼んだが、まだ小さかった私は何の抵抗もなく、「布団」「テーブル」「味噌汁」が「床」「お膳」「おみおつけ」であることを理解した。もしかしたらバイリンガルとはこのようにして出来上ってゆくものなのかもしれない。

 

☆祖母は、童謡・唱歌・子守唄・流行歌・軍歌と、いろいろ唄って聴かせてくれた。眠たがりやの祖母が私をお昼寝に巻き込もうと、ふかふかの「床」にいつのまにか私を寝かせ「ねんねんころりよおころりよ」の子守唄をエンドレスで唄ってくれたが、私の眼はいつでもぎんぎんで、祖母には申し訳ないことをした。祖母の歌唱で知った曲もいくつかある。いまでも童謡「赤とんぼ」といえば、笹やぶの小道で、小さな妹を背負い「夕焼け小焼けの赤とんぼ」を唄う祖母に手を引かれ三人で夕焼け空を見た、夢のようにリアルな場面を思いだす。

 

☆祖母はよく「お富さん」を唄っていたが、幼い私の耳にはおおよそ「いきな黒べえ 神輿の祭 仇名姿のあらいがみ」のように聞えており、間違ったままの歌詞でときどき唄っていた。

 

☆山育ちの祖母は、冬になると、きれいな新雪を選んでふんわりとすくいとり卵と砂糖を混ぜて「アイスクリン」を作って食べたと愉快そうに語っていて非常にうらやましかった。

 

☆塩を持って山に入り、葡萄の葉をちぎりとっては塩でもみ、片っ端から食べていた時期があったらしい。なぜそうしたかは彼女自身もわからないという。

 

☆祖母のご先祖には国鉄の駅長と温泉宿の女将がいるが、縁がないというのか、子孫の私は鉄道旅行もせず、おそらく温泉には一度も入らずに一生を終えるだろう。

 

☆祖母が幼かったころのこと、春先、新しいおべべを着て玄関先に一人でぶらりと立っていると、どこからか一頭の羊が現れ、猛然と祖母に向って駆け出した。あわてて家に逃げこみ廊下を走ったが羊は追ってくる。どうにか廊下の突き当たりの部屋に飛び込み、戸を閉めて難を逃れた。「春先の羊はあぶない。」というのが祖母の教えである。

こんな夢を見た

☆夜A

◆故郷の小学校を訪ねると高学年用の玄関が図書室になっていた。下駄箱はすべて本棚に置き換えられ、机も椅子もなく床に座って本を閲覧するスタイルだった。

◆遠くに住む一つ年上の友達・Kちゃんがランドセルを背負ってはるばるやってきた。私は彼にネクタイを買いにゆくよう懇願する。同じツアーに、これまた遠くで暮らすY子ちゃんも偶然いた。夢とはいえ、久しぶりに友達の顔を見ることができてうれしかった。

 

 

☆夜B

友達のYちゃんKちゃん夫妻の新居へ遊びに行く。赤の目立つ派手な寝室には、私の古い知人が商うキャラクター「ジンギスカンのジンくん」の大きなクッション状のものがある。Yちゃんは室内にものが多すぎて困っているようだった。

 

 

☆夜C

どこかの学校の体育館に男ばかりが何人か入った大きな炬燵が置かれている。そのおこたからサザンの桑田が顔を出しマイクを握って何かの曲を熱唱している。実際に男の汗の臭いがした。(私の名誉のために付け加えるが桑田ファンではない)

 

 

☆夜D

東京在住という設定で、久しぶりに生まれ故郷を訪ね、なつかしい夏のごちそうをたらふく食べさせてもらった。親戚のひとたちは現実の年齢よりもうんと若い。明るく広い座敷にみんなで集まって、亡き母方の祖父の書体を再現できるどんぶり型のテンプレエトを試している。いいお天気だ。

 

 

☆夜E

友人D君が私の何かを褒める文章をたくさん書いてくれた。おまけに茶色い紙で自分で巻いたような感じの外国製の細い煙草も一箱くれた。葉巻の味だというその煙草はフィルタアが食べられるようにできており、煙を吸ったり吐いたりしながらチョコレエトのようにおいしいフィルタアも食べた。彼の文章が印刷された紙を床に広げ、煙草を吸いつつ読みふけったのだった。

朝から拷問するお父さんのいる風景

☆いつもと違う位置に置かれた食卓には私ひとりだ。機械的に朝食を飲みこむ私の背後、カアテンを引いたままの薄暗い部屋では、小さな子が「保育所へ行け!」「なぜ保育所へ行かない!」と罵声を浴びせられ、平手打ちの連打を喰らい布団の上を右に左に転がされて泣き叫んでいる。恐怖のあまり、その子はとうとう「(保育所へ)行く…。」と小さな声で言ったが、虐待者は金切り声ですかさずわめいた。

「そんな(殴られた手形の付いた)顔で(保育所に)行けるわけがないだろう!」

独善的な彼の「躾」の手段は逆上と脅迫と暴力なのだが、彼はそれを善意と良識と正義だと思いこんで疑わないらしい。次は私の番だろうか。喉ぼとけに大理石の球が詰まっているせいで食べ物がつかえるけれど、朝食を残らず飲み干して(でも急がないふり)、急いで家を出て、一刻も早く虐待者から逃げなければならない。幼い私では折檻されているかわいそうな小さな子を助けることはできないし、誰かに助けを求めることもできない。虐待者は実の父だからである。行きたくないけれどいい子のふりをして学校へ行かなくては危険だ。それでも何もされない保証は残念ながらどこにもない。すべては虐待者の気分次第なのである。不思議なことに母の姿が見当たらない朝であった。

パパママ・ガイキチ

☆つきあいきれないのと、かかわり合いたくないのとで、小学4年あたりから私は父を避けるようになっていった。

☆そうすると、なぜ自分だけを疎外するのか、ときいきいした非常にヒステリックな声で父が怒鳴る。静まり返る食卓。不味い食事が余計に不味くなる。絶好調で文句と説教を垂れる父を止められる者のいない世界である。

☆父は自分の思うままになるのも好きだったが、その反面、揉め事も好きだった。中学生のころ、同級生がかけてきた性的ないたずら電話にきつい訛りの金切り声で応答し、説教までしていた。だからまたいたずら電話がかかってくるわけだが、父によると「おまえの日ごろの行いがわるいからだ!」とのことで、わるいのは私ひとりだったらしい。

☆つい最近までの父の印象としては、

・コドモなど家庭内弱者を恐怖や暴力で支配しようとする(本人は親切のつもりである場合も多い)。

・家庭の中にも外にも父を止める者は誰ひとりいなかった。

・そういうわけで私は幼児のころから一人暮らしに憧れ続けた。

・思春期に入りそろそろ限界を超え、父を避けた。

・父はそれを私の「年ごろ」のせいにした(これは父に落ち度はないということを意味する)。

☆家庭内に救いはほぼなかった。両親ともに普段からきいきいしたヒステリックな物言いが多く、私の顔さえ見れば文句か説教を垂れ流すのであった。小学4年のとき、新しい環境になじめず不眠気味の私の顔を見ていろいろ文句を言ったあと「そういうのをきちがいの目というんだ!」と父は正面から叫んだ。もちろん私は耳を疑った。キチガイキチガイと言われたのか、と。

同じころ、参観日に来た母が帰宅後、「あんただけ頭のつむじが大きくて恥ずかしい! もう髪の毛を抜くんじゃない!!」と眉毛をつり上げまくしたてた。当時、私は、いわゆる抜毛症になっていた。

いろいろと満たされない両親にとって、私は恰好のサンドバッグであったようだ。飾りものの飴と使い込まれた鞭の冷たい家だった。

☆そんな両親には友人が一人もいない。私が幼いころ、友達が欲しくて子供を産んだのだと母は楽しげに語ったことがある。早く大きくなって対等におしゃべりできる日が待ち遠しいとも言っていた。彼女が欲したのは「オトナ」の私で、「コドモ」の私など求められてはいなかったのだ。しかし「コドモ」を尊重しなかったために彼女の「友達づくり作戦」は無惨な失敗に終った。母はこのことに気づいていないと思う。

☆こういう家庭を楽しむ方法はどこにもない。親を反面教師とするのがせいぜいだ。

☆楽しくもない物事を楽しむには莫大な労力を要するし、楽しくない物事を無理やり楽しむことは基本的に不可能であり、無駄な努力である。

若気の至り(若き野郎ども篇)

☆とあるお正月、地元の百貨店の地下通路のベンチで休憩していた。そこを通りかかった中学生男子二人組。一人が鞄から空のペットボトルを取り出し「ぜんぶ飲んじゃった…。」と相手に見せた。見せられたほうはさっそく鞄をごそごそし、自分のペットボトルのお茶を差し出してぼそっとひとこと、

「粗茶だけど…。」

それを聞いた瞬間、私は彼らとお友達になりたいと強く思った。

 

☆小学四年生男子がお風呂のお湯に浸かり「〽︎時には娼婦のように〜」と真剣に唄った。

次の瞬間、いっしょにお湯に浸かっていた母ちゃんに後頭部をすぱーんと叩かれ「もっとコドモらしい唄、唄いなさい!!」と叱られた。

のちに彼は、「テニス」に誘われているのに「は? ペニス? は? ペニス?」と真顔で聞き返したり、どこかで覚えた「コケティッシュ」という言葉を「 ” コケ ”  で  ” ティッシュ ” 」だからすごくすけべな言葉にちがいないと勝手に解釈したりするオトナになった。人間は変化する。しかし人間は変化しない。

 

☆とある住宅街でのこと。古紙回収のトラックが通りすぎたところに小さな坊やがひとり、道路に飛び出して叫んだ。

「おじちゃーん!」

その声は古紙回収のおじちゃんに届いた。おじちゃんは親のおつかいかもしれないと思ったのかトラックを止めた。ミラー越しに坊やを見て、バックする態勢に入っていたかもしれない。

そして坊やは手を振り力強く叫んだ。

「ばいばーい!」

おじちゃんはそのまま走り出した。

 

☆ある夜のイトーヨーカドーでのことである。二歳になるかならないかくらいの坊やがカートに乗せられていた。カートが女性用下着売場にさしかかったとき、陳列された大量のぶらじゃを発見した坊やが、よく通る大きな声で「ぉぱーい!」と叫んだ。坊やは止まらない。可愛い声で楽しげに「ぉぱーい!」「ぉぱーい!」と激しく連呼する。あたりにはほとんどひとはいなかったが、カートを押すいかにも若くて真面目そうなお母さんは表情を硬くしてものすごい早歩きで通りすぎて行った。子をもうけると大変な出来事がさぞやたくさん起るのだろうと、笑いを堪えながら世のお母さん方の苦難を思い、自分にコドモがないことを改めてありがたく思った夜だった。

萌え萌えと、女装できないおばあさんの明日

☆十年ほど前の話である。市中心部の横断歩道を渡っていたところ、男子高校生らしき声で「もーえー!!」と叫ぶのが聞えてきた。どうやら自転車を飛ばしながらのようだった。その場で膝小僧靴下(いわゆるニーハイ)を着用していたのは私ひとりだったから、もしかしたら萌え萌えなひとと勘違いされたのかもしれないが、残念ながら私は萌え萌えなひとではないので「もーえー!!」の彼は不正解である。しかし通りすがりに赤の他人からそんな面白いことを言われる機会は滅多にないのでやけに可笑しかったことをいまでも覚えている。

 

☆そのころだろうか、この町に初めてのメイド喫茶ができ、さっそく行ってみた友人I君がものすごい勢いで文句を言った夜があった。曰く、単なる飲み屋のおねいちゃんが取ってつけたようなメイドさんの衣裳を着け、酒焼けした声で「ご主人様ぁ!」と接客しやがった、と。彼が最も立腹していた点は、ニーハイの似合うおねいちゃんがひとりもいなかったということだった。そこのおねいちゃんより私のほうがずっとニーハイが似合うとのことだったから、かなり悲惨なメイド喫茶だったのは想像するに難くない。好奇心から求人広告を見てみたらお時給が水商売並みだったのだから、この田舎では仕方のない事故ではあったと思う。たしかそのお店は数ヶ月でつぶれたはずである。

 

☆私は膝小僧靴下の愛好家で、けっこうたくさん所有している。しかし困ったことに私は病気の老人になってしまった。あれを着用するには生き物としてある程度の馬力を必要とするのである。その馬力を病気と老化で一気に失ってしまったのだが、着用できなくなったからといって、長年探しまわって集めた愛着ある靴下を捨てる気になどなれないのだ。なかには30年前から所有してほとんど着用していないお気に入りもある。同じように、長い時間をかけて蒐集したミニスカアトも、着用することも捨てることもできずにいる。老人になった私は一体どんな洋服を着て残りの人生を過ごせばよいのか、途方に暮れる今日このごろだ。