SOMEDAYを聴けば

☆あれは十七歳の初夏だった。当時つるんでいたYがたまたまくれた佐野元春の「NO DAMAGE」のカセットテエプをいたく気に入り、くる日もくる日も聴いていた。

 

☆「NO DAMAGE」を聴くうちに秋が来た。秋の夜は早く始まる。私は夜を待っていた。街のネオンサインや街灯がいつもより早く点灯するのがうれしかった。まだ「夜の世界」を知らない私にとって、夜の一部を垣間見た気になるのは心躍ることだった。それほどに私は幼かった。

 

☆人工の光に彩られた街を歩くのは愉しかった。黒いストッキングに黒いパンプスでオトナぶるのも好きだった。重苦しい空気の家になど帰りたくなかったが、宿無しになる勇気もなかったので、やむを得ず帰りのバスに乗る。

 

☆駅前を発車したバスはすぐに右カーヴに入り、1kmほどの直線道路、片側二車線のS通りの起点に出る。その道にはオレンヂ色やレモンスカッシュ色の街灯と信号機が規則的に並び、光り輝いていた。

それをバスのフロントガラスから見た瞬間、突然、頭のなかで佐野元春の「SOME DAY」のイントロが鳴り始めた。車の走る音やクラクションが収められていた「SOME DAY」だ。大都会の夜の光から作られたであろう曲が、田舎町のメインストリイトとシンクロする不思議。

私はこれよりも美しい夜景を見たことがない。少しにじんだ光を見ながらなんともいえない高揚感に包まれて、夜のS通りをバスに揺られたのだった。

 

☆いまだに「夜の世界」はほとんど知らないままだが、それなりに世間ずれしたうえ視力も弱まり、夜のS通りはまばゆさを失った。あのころはどうしてあんなに光がまぶしく見えたのか。思うに、「若さ」というのは一種の魔法で、それが尽きたらオトナになり、長生きしすぎれば老人なのだ。

 

☆それでも「NO DAMAGE」を聴くと、あの夜の少し潤んだ光を鮮明に思い出す。若気の至りもわるくない。

 

 

 

 

長生きの諸悪の根源とめぐり会った日から三十一年

 

☆「こんなになっちゃって、すまないね」と、若き日の自分に謝りたい。バカのように長生きしたことを詫びたい。同時に、いま現在の自分にも謝りたい。

詫びたところで煙のように消えることができるわけでもないが。

 

☆手もとに十九歳のときの写真がある。夏の海で陽光浴びて風に吹かれて、少しすました微笑を浮かべこちらを見ている。この写真を発見したとき、私はうれしかった。自分にもこうしたぴちぴちとまぶしく「可愛い」時代があったのだ。

もちろんアイドルのようなレベルで可愛いわけではないが、べつにかまわない。生まれつき老人ではなかった証拠があればそれでいい。

だからなおさら、音楽にのめりこむ前に、ぴちぴちのままこの世を去っていればと思わずにはいられない。

 

☆さっき、自分が死ぬ夢を見た。淋しかったがせいせいした気持のよい春のような夢だった。

この老人は一日も早く世を去りたいと思っている。音楽に楽しく邪魔されながら。

 

 

 

八月から来た男

☆一九八九年八月の初め、私より三つ年下のKを、そして私たちを、或る不幸がとつぜん襲った。

 

☆それから何日かたった夜明け、私と同い年のGちゃんは、私たちの車の後部座席にラジカセとともに乗り込み、私たちの町へとやってきた。

 

白いTシャツ、ブルージーンズ、素足に3ホールの安全靴、ジーンズと靴の間からのぞく極細の足首、黒くて丸いサングラス、真ん中あたりからラフに分けた前髪も黒かった。

そうして(おそらく)ネイルフランのレコ発ツアー中の割礼をみんなで見たのだった。

 

☆打ち上げは誰かの部屋でやった。私はGちゃんの隣りに座っていた。大酒飲みだったGちゃんはよくお手洗いへ行ったが、次第に泥酔してゆき、「飲むとトイレが近くなる」と間違った日本語を話して可笑しかった。

 

 

☆騒がしい宴会の途中、不意にGちゃんが手帖を出して、「これ、書いてあったわ」と室生犀星の「急行列車」を読ませてくれた。律儀な文字だった。

前に室生犀星萩原朔太郎などのことを話し合ったのを覚えていてくれたらしかった。

 

翌日、Gちゃん含む何人かで書店へ寄り、私はGちゃんも持っているという新潮文庫版の『室生犀星詩集』を買った。

(それから約10年たってGちゃんのバンドの演奏を見に行った際、申し訳ないことは重々承知のうえで室生犀星詩集』の表紙にサインしてもらった

 

それからGちゃんは誰かのバイクの後ろに乗り、日常へと帰って行った。

後ろ姿はあっという間に小さくなり、すぐに見えなくなってしまった。

 

 

☆あのときのGちゃんのイメエヂが強烈なためか、現在彼が作る音楽を聴くと頭のなかが瞬時にあの八月になる。

そもそもGちゃんの頭のなかが八月なのかもしれないとも思う昨今だ。

 

 

 

七夕とお盆の思ひ出

☆北海道はほとんどが旧暦で七夕祭りをする。そのすぐあとにお盆がきて、田舎暮らしだったコドモのころは妙に浮かれて過ごしたものだった。

 

☆とある七夕には母といっしょに色紙を切ったり貼ったりしてお飾りを作り、庭に立てた柳の枝に飾り付けたものだった。竹が生えていないので柳を使うのである。

後日、父が七夕飾りを車に積み込むと、助手席に幼い私を乗せ港の向こうあたりまで走ってゆく。と、車を路肩に寄せて停め、唐突に七夕飾りを海に放り込み「七夕さんに『ばいばーい』って。」とやけに明るく言う。

「七夕さん」に「ばいばい」を言っても「七夕さん」は返事をしてくれないんだけどなあ……と困惑しつつもオトナの夢を壊さないよう気づかって、私は小さな声で「ばいばい」と言い、少しだけ手を振って七夕さんとお別れした。

けっきょく、それが私と七夕さんとの永遠のお別れになってしまった。

 

☆祖父母の家には古くて小さな黒塗りの仏壇があった。

これまたとあるお盆、娯楽の殿堂・祖母が楽しいことをさせてくれた。

蛍光色のピンクや緑の、空っぽの最中のようなものに紙テープが付いたもの(当地では現在も「つるし」という名で売られている)を仏壇に飾るのだという。

私は祖母といっしょに紙テープの部分をマッチ棒に巻きつけて、仏壇の前面上部のすきまにたくさん刺してぶらぶらとぶら下げた。それはそれは楽しい作業だった。

 さらに祖母はきゅうりと茄子に四本脚をつけて馬と牛を作り、仏壇の台、お鈴と同じ段に並べた。それは私をひどくトリップさせた(もちろん素面)。

 楽しかったお盆が済むと、とある昼間、祖母は私を連れて浜へ行き、波打ち際にしゃがみこんできゅうりの馬と茄子の牛を放流した。コドモだった私は、馬と牛のうしろ姿を見送りながらなんだか淋しい気持になった。

 

☆私の家の敷地内に、近所の人が「三ツ岩(みついわ)」と呼ぶそこそこ大きな岩があった。

またまたとあるお盆のこと、どんより曇った午後、母が楕円形の大きなお皿に果物などのお供物をたくさん乗せて三ツ岩の裏手に向かった。私も連れて行ってもらえたということは、お供物の大皿を持つお手伝いをしていたのかもしれない。

岩の裏に回ると、突然景色が開けた。そこはちょっとした崖で、見渡すかぎりの海岸だった。人っ子一人いない。

初めて見る私はあっけにとられて眺めていたが、おそらく母に促され、我に返った。

目の前には古くて小さなお墓が二基あって、お供物はこれらのお墓のためだった。

私と母とは、それぞれのお墓にお供物を置いたのだと思う。

オトナになってから聞いた話によると、二つのお墓はその土地の持ち主だった人のもので、中はお骨など入っておらず空っぽだったらしい。

当時は日常生活のすぐ裏にこんな非日常が潜んでいたのかと思うとどうしようもなくトリッピーな気分で、いつものように灰色の空の色でハイになってしまったのだった。

 

☆その後、いまの田舎町で暮らすようになってからは、やはり祖父母の家でお盆のトリッピーな雰囲気を楽しんだ。

電気でまわる廻り燈籠、カセットテエプの般若心経(永平寺!)、慣れ親しんだ仏壇に飾られた落雁などのお供物(あとで私のおやつになる)、コドモたちに配られるアイスクリームやみぞれ、冷えたプリンスメロン、白い部分の多いスイカ、冷たい麦茶、騒がしいばかりでうっとうしいことこの上ないいとこたち、熱い空気をかきまわす扇風機、天然素材でなく青いプラスティックのすだれがかかった窓等々々々。

記憶の中の祖父母はいまでも元気だ。

 

☆お墓参りに出かける時期になってもならなくても思い出す幼い日々の八月の記憶は、私にとってはいまもって強烈であり重要なのである。

 

 

 

彼女がいた夏

☆二度目の夏祭りが終ったあと、七月末に身内の者が帰省した。

彼女は例によって嵐のように登場し、毎日をお祭りのように過ごした。「ひとり帰省ラッシュ」である。

食いしん坊だが小食で、食べるとすぐに眠くなり目が半開きになる仔猫みたいな人だ。

我が強く、気も強く、行動はスピーディーでまめに出かけてせわしない。ちびっこ爆弾のようなところもむかしからあまり変らず、いっしょにいるとくたびれるのだが、いないとなるとなんだか淋しい。なんともいえない輝きと可愛げがあるのだ。私とは正反対のタイプといえる。

 

☆私はコドモのころから「別離の雰囲気」が嫌でたまらない。幼少時、観光地に暮らしていたせいで見知らぬ親戚がよく訪ねてきたが、彼らをお見送りするときさえ私はしくしく泣いていた。知らない人のお見送りなのにである(その様子を「可愛い」と写真におさめた鬼畜な父もたいがいなのだが)。

だから彼女が帰るときは絶対にお見送りをしないと決めている。

まあ、見送られるのもたいして楽しいものではないだろう。

 

☆さて、タチアオイの写真も撮った。花火大会も済んだ。彼女も一週間ほどで嵐のように帰って行った。こうやって夏が一つ一つ片付いてゆくのは毎年のことではあるが、毎年々々淋しく思う。暑いのが嫌いなくせに夏のイメエヂだけは好きなのだ。夏が逝くのを惜しむのは、世界からまぶしさが失われてしまうのが嫌なせいかもしれない。若いころはこんなことはなかったから、この傾向は老人病みたいなものなのだろう。

 

☆しかし夏の本番はおそらくこれからなのだった。

 

 

 

或る夏の記憶

☆28年前の今日、友人Kが交通事故で世を去った。

 

知らせを受けても実感が湧かなかったが、なにしろ大変なことが起きたらしいことはわかったので、いてもたってもいられずKの住む街へと車を飛ばした。

何人かで連れだって、真夏の夕刻、黒いスーツを着てお通夜の会場に到着すると、いつもライヴハウスで顔を合わせる面々がすでに並んでいた。

会った瞬間は、みんな普段と正反対の正装がおたがいに面白く「わあ、スーツ着てる!」などとひそひそ声で笑いあったものの、すぐに「いま、みんながこの場所に集まった理由」を思い出し、真顔に戻り無口になるのだった。

 

☆Kはそのとき大学に入ったばかりの19歳の少年で、仲間内では最年少。頑固で気が強いが人懐っこく陽気で、はにかんだように笑う笑い方がなんとも可愛かった。年上の学生のバンドに混ざってベースを弾いていた。

 

人見知りな私がひとりぽつんといると、Kは例のはにかみ笑いとともにどこからともなく現れ、私の相手をしてくれた。

やがて別の誰かが現れて三人で談笑していると、Kはいつのまにか消えるのだった。

決して長くはない友達づきあいのなかでそういうことが何度もあったせいか、いまだにKはちょっと不思議な印象である。

 

☆お通夜の席で、Kのお兄さんのGちゃんが一升瓶でお酒をついでまわっていた。

私はサングラスをかけ涙を隠して「少しでいい……。」と言い、Gちゃんは「大酒飲みじゃなかったの?」と涙声で言った。

 

☆会場は市民センターのような建物の一室だった。

御遺体に挨拶しておいで、と年上の人から言われたが、私は棺のなかを絶対に見ないと決めていた。見ればKの死を認めることになる。そんなことは嫌だ!

夜中近く、人もまばらになり、誰かがギターを弾きはじめた。ラジカセからは音楽が流れた。私は部屋のなかをぶらぶらと歩き窓のそばへ行った。

カーテンはなく外は真っ暗。そんななか、少し高い窓ガラスに白い手型を一つ見つけた。

チョークをたっぷり塗って、通りすがりにガラスをぽんと叩いたようなその大きめの手型を、ぼんやりと背伸びして指で触れてみた。が、触ることができない。

よく見ると、窓の外から付けた手型だった。

そこは一階だったが、高い脚立でもなければその位置に手型をつけることは不可能で、私の頭のなかに疑問符が渦巻いた。

と同時に、Kも大きな手をしていたっけなあ、と思い出した。

このことをGちゃんに報告すると、「やめてよ〜、怖いよ。」と困った顔をされてしまった。

 

☆翌日は午前中から告別式があり、泣きはらした眠い目で列席した。

炎天下、火葬場にも連れて行ってもらった。

誰かが「若いから、骨、きれいだよ。」とはっきりと言ったが、なぜそんなことを言えるのかがいまだにわからない。そんなことより、問題はKの不在なのだ。

けっきょく、焼きたての白い骨を私も拾ったはずだが。

 

☆後日だったと思う。Gちゃんの好意でKの形見分けとして、Kが愛用していた熱帯の鳥の形のピアスを無理やりもらった。いまでも宝物の小箱に大事に入れてある。

いま、まわりまわって私の手もとには、Kが愛聴していた二本のカセットテエプもある。

ほんとうならGちゃんに返すべきだったのだろうが、返しそびれてこの年になってしまった。

返せなくなった以上、いつでも返せるように大切に保管するよりほかはない。

 

☆当時バンドに在籍していた私は、いなくなってしまったKのことを歌詞にして「お菓子の唄」と名づけた。

「無重力の日は / 土星の輪の上 / 追いかけっこを / あの世の果てまで」という、全力で書いた拙い歌詞をいまでも諳んじることができる。スローテンポでハイテンションな曲だった。

Kに会いたい一心で書き、唄った。

 

☆いまKがこの世にいたらどんな人になっていただろう、と八月がくるたびくりかえし考えてきた。八月以外にも考えた。

Kのことだから、きっと面白い人物になっていたのではないか。

たとえ疎遠になっていたとしても、地球上にいてほしかった。

 

☆K、またね。

 

 

 

てふてふとさなぎ

☆「クラスに一人はいる未熟児みたいな男子」という言い方をした男の人がいた。雰囲気はわかるし、初めて聞く表現でもあったので、私は反射的に笑った。しかしそれが明らかな侮蔑をも表していると気づいたとき、笑ったことを後悔した。

 

☆私はあまり学校へは行っていないし、学校でもどちらかというと浮いた存在だった。そういう「学校向き」でないコドモではあったが、席替えでどんなコドモが隣りにきても必ず話しかけるコドモであった。誰も声を聞いたことがないほど無口な男子にも、委細構わず話しかけた。さぞや迷惑なことだったろう。もちろん「未熟児みたいな男子」にも普通に話しかけた。優等生にもである。ヤンキーや体育会系は放っておいてもぺらぺら喋っていた。

 

☆小さなころから、クラスで目立つコドモよりも、おとなしくて目立たないコドモのほうが、意外と趣味の世界に生きていたり、温厚で話しやすかったりして好きだった。そういうコドモを発見するたび「人って、第一印象じゃわからないものだな」と感じ入ったものだった。

 

☆中学一年のとき、たまたま席が近かったS君は、内気でおとなしい少年だったが漫画が好きで、私も大好きだった『マカロニほうれん荘』で盛り上がると彼はにこにこ笑い、静かだが饒舌になった。何のきっかけか、むかしの漫画の話になり、私が「見てみたいなあ」と言うと、翌日の朝、貴重な『のらくろ』や『クリちゃん』『フクちゃん』を惜しみなく貸してくれるのだった。むかしの本なので、傷めないように扱い、緊張してそうっと読み、翌日には返却した。そういえば彼はフクちゃんに少し似ていた。

 

S君は「未熟児」ではなかったが、日々成長を続ける少年たちの中では少しだけコドモっぽいほうだったかもしれない。だが、もの静かで親切に楽しく接してくれた。男女交際はなかったが、とても好ましい人物だった。いまでも古い漫画の記憶はS君の記憶と結びついている。

 

☆人間を派手な外見や雰囲気などで選ぶのもわるくはないが、あまり目立たない控えめな人物に焦点を当てると愉快なことが待っている可能性が高い、というのがいまでも私の持論だ。

 

 

 

 

 

民放FMラヂオデイズ

☆中学生のとき、地元で初めての民放FMが開局した。やっと与えられた個室で、やっと買ってもらったステレオ式の「ラジカセ」を、夜は枕元に置き、休日の昼間は窓ぎわなどに移動させ、欧米の音楽、古い音楽、ニュース的要素の強い情報番組など、むさぼるように聞いたものだった。最初に「AIDS」のことを知ったのも、デイヴィッド・ボウイーの『ジギー・スターダスト』の宣伝が気になって仕方がなかったのも民放FMだった。

☆高校へ入学した直後、私は心臓を患った。外を普通に歩くことも禁じられ、走るなどもってのほか。医者のいうとおりに休学するよりほかなかった。寝込むようなことはなかったが初めのうちは家に缶詰で、ひと月ほど経ったころだろうか、近所まで短時間でと言う条件つきで外出の許可が下りた。季節は大好きな春、しかも遊びまわりたい盛りの16歳だというのに、外に出られるのはごく近所の小さな書店までという、少し淋しい自宅療養生活だった。

もともと学校とは折り合いがわるく、小学校に入学してから中学校を卒業するまでの9年間、ほぼ毎日、空腹による吐き気と激しい胃痛に悩まされ続けたが、学校へ行かなくなると、大好きだが胃痛の元だった牛乳を二日で1リットル飲めるようになった。

☆そんな日々の午前中、朝食を済ませてコドモ部屋へ引っ込んだあとのお楽しみは民放FMだった。当時、十時半ごろから、いわゆるオールディーズを毎日3曲ずつ聴かせる番組があった。おだやかな優しい声のおじさんが静かに曲を紹介したあと3曲たてつづけに流すだけの15分ほどの番組であったが、私はたいそう楽しみにしていた。

中学校を卒業したあとの長い春休みに、テレビで映画『アメリカン・グラフィティ』と『卒業』を見る幸運に恵まれた。その影響もあってか、私は古いポップ・ミュージックに興味津々だった。そのころから、どの時代のどんな音楽を聴くかは自分で決めることにしていたので、最新のヒット・チャートよりも、優しい声のおじさんのオールディーズ番組のほうがはるかに魅力的だったのだ。毎日の3曲は確実に私の耳の栄養になっていった。

☆ところで、あのころ世界はなぜあんなに光に満ちていたのだろう。それは現在の世界が輝きを失ったのでなく、単に私が老化したせいなのだと思う。世界は相変らず美しい「はず」だ。

百歳

 

☆今日は母方の祖父の命日である。存命であればちょうど百歳だ。

 

☆祖父は酒好きで、働き盛りのころはビール、日本酒、ウィスキーといろいろ飲んだが、晩年はもっぱら大瓶の安いウィスキーを冷たい麦茶で割って晩酌としていた。

深酒をして、お気に入りの若山牧水の歌、「それほどにうまきかとひとの問ひたらば 何と答へむこの酒の味」をときどきうれしそうに諳んじた場面もなつかしい。

 

私の好きなジャックダニエルズやテキイラや赤ワインを持ち込んだらどんな顔をしただろうかと考えることがいまでもある。ソーダ水やトニックウォーターも持ち込んで、二人で乾杯して美味いの不味いのと喋ったら楽しかったかもしれないと思ってしまうのだ。

 

両親は酒嫌いでまったくの下戸だが、孫の私はお酒が好きで、バカみたいに本を読むところも物持ちがいいところも祖父に似ている。卵に目鼻のひな人形のような顔だった祖父とはまったく似ていなかったが、このごろ少し似てきた気がする。

 

☆今夜でなくてもいいからたまには祖父の登場する夢を見たい。

 

 

記憶の遠近感

☆むかしむかし、秋から冬にかけて毎年来ていた、

「焼芋っ。     一個百円っ。     焼芋っ。     一個百円っ。」

の焼き芋やさんのおじさんの呼び声がなつかしい。

このおじさん、夏場は夏場で、

「甘〜い甘い、   スイカに、   メ ・ ロ ・ ン ♡」

の声とともにやってきたものだったが、いまはもう聞くことはない。

おじさんはどこでどうしているのだろう。 今さらながら、おじさんの幸運を祈って止まない。

☆このあいだ閉店した百貨店の地下の奥にはむかしから一軒のお魚やさんがあった。並べられたお魚は大物演歌歌手がステエヂに登場するときのような白くて冷たい煙におおわれていた。

むかしむかし、このお店でさまざまな海産物を眺めるのが好きだったのだが、生まれて初めてミル貝がだらしなく横たわるのを目撃したときは、恐怖のあまり黒いミニのタイトスカアトに黒いストッキングとローヒールといういでたちで人目もはばからず逃げ出した。もちろん全力疾走である。地階の端っこまで走ってやっと立ち止まった。それ以来、歌謡なんとかショウみたいなこのお魚やさんへ行く際は、だらしないミル貝がいないかどうかを遠巻きに確認してからそばに寄って見学することにしたのだった。

ミル貝はほんとに恐ろしかった。

☆中年のころ、徒歩15分ほどの距離にある大型スーパーマーケットでおやつのお買物をした。当時新発売の、ラズベリー味のビターチョコレエトも一箱買った。

お会計が済んで荷物をお買物袋に詰め替えるときからラズベリーのチョコレエトを食べはじめた。爆発的にんまかった。エスカレエタアで地上に出る間も、外に出てからもラズベリーのチョコレエトを食べ続けた結果、自宅に到着するはるか前に食べ終えてしまった。もう二箱買わなかったことを激しく悔やんだが後の祭りである。部屋に到着するまで歩きながら食べ続けていたかった。

後の祭りといえば、その後、私の心拍数は予定どおりはね上がった。いったい何度チョコの一気喰いをしては心拍数を急激に上げる経験をしてきたことか。人は皆、カフェイン類を一気に摂ると心拍数がはね上がるようにできているのだろうか。

たしかその夜は心臓が苦しいまま重い躯を引きずってPANTAのライヴへ行ったはずだ。友人I君と、PANTAの曲のすごい歌詞、「気がついたらお姉さんの首を絞めて殺してしまっていた」みたいな歌詞に死ぬほど笑いをこらえながら見ていた気がする。

☆あんなこともこんなことも、むかしむかしの出来事だ。

万引き観光

☆何年か前に見た、非常に嫌な光景の話である。

☆夜、近所の小さなコンビニに入ると、すれちがいに夫婦らしき小柄な年配の男女二人連れが店を出るところだった。見た目からの推測だが、彼らは中国語を話すひとたちに見えた。その夫婦はそれぞれの手に一つずつお菓子か何かの小さな商品を持ち、いかにもいやしいうす笑いを浮かべながら出口に向っていた。そこはレジからは完全に死角になっており、彼らの手にある品物はレジを通していないはずだ。そんな場面を私ひとりが目撃してしまい、しかも何の対処もできず非常に後味のわるい思いをした。

☆この町にも中国語を話す観光客は増えている。以前は団体客ばかりで、見たこともないような原色の無地の洋服をおよそ考えがたい色合わせで上下着用した集団が我がもの顔で歩行者天国の道路をふさぎ、わめくように会話していた。それが最近は、比較的洗練された身なりから推察できるとおり、いかにも経済的に余裕のありそうな、おもに都市部に暮らしているであろう家族連れをよく見かけるようになっており、騒々しいひとたちはいつの間にか消えていた。現在の、中国語を話す観光客と比べれば私たち田舎町の市民のほうが野暮ったいぐらいではないだろうか。

☆日常生活よりもより多くのお金を使わざるを得ないのが観光だ。事情が許すかぎり財布のひもをゆるめるのがよいと思う。逆にいえば、散財できないときは観光するときではない。散財どころか万引きする者はただの犯罪者だ。そういう方々にはぜひ観光しないでもらいたい。

家庭内ロックンロオラア誕生前の長い夜の始まりの日

☆30年前の今日、私の人生の中心がロックンロオルになった。ある人物に出会い、魅力的なロックンロオルを浴びるように聴かせてもらい、それらを片っ端から気に入って四六時中聴くようになったのだった。まるで水をぶっかけられたスポンヂのごとく、「あ!」という間もなくロックンロオルに溺れてそれっきりである。

もともと音楽は好きで、ソルの「雨だれ」を聴きたいがために得意の道草を喰わず一目散に帰宅することもあるような小学生だったし、ただレコードを聴く、という遊びのメニューは幼少期からあったが、どんな音楽を聴くかは30年前のこの日に決まった。

耳のピントが定まって以来、ロックンロオルばかり聴いてきたわけだが、思春期までにテレビやラジオで聴いたかつての「流行歌」も自然と大切に思うようになっていった。なにしろ何もわからない人生の黎明期に私を楽しませてくれた音楽にはある種の「恩」を感じないわけにはゆかない。ロックンロオルとはやはり区別はするが古い流行歌もなつかしく聴いている。

また、そのほかのジャンルの音楽もいろいろと楽しむようになった。これはロックンロオルの聴きすぎの効用というか副作用というか、一つのジャンルをブラジル付近まで掘ってゆくと、いろいろなジャンルが自動的に付いてきたという感じである。

こんな楽しいものがあるからいつまでも死なずにだらしなく生きているのだ。そういう意味では音楽は諸悪の根源といえるが、やはりどうにもこうにも好きなのだ、ロックンロオル。

百貨店のない町になるとき

☆十代のころ、絵の具のチューブに入ったド紫色の口紅を買った百貨店は、だいぶ前にこの町から撤退した。そのときに初めて百貨店の閉店セールというものを体験した。閉店前日だったと記憶しているが、これがこの町かと思うくらいの人混みだった。それとは対照的にすっからかんになった店内の様子を見て、来るんじゃなかったと後悔した。これで町には百貨店が一軒になってしまった。

☆そもそも市中心部へ行くひとが減って久しい。普段いるのは老人と観光の中国人と下校途中の高校生くらいなものである。

☆田舎は車社会だ。車がないことは死を意味する。駐車料金のかかる市中心部の百貨店へわざわざ行かなくても、郊外のイオンなどのほうが無料の広い駐車場があるし、バラエティに富んだ目新しいお店でゆっくりお買物をして、ついでに気軽なお食事もできる。おまけにそういう施設は建物も比較的新しい。古くさい百貨店へ行くよりは、より気軽で新しい場所へ行くことを選ぶのだろう。それはこの辺のひとびとの習性でもある。いや、そもそも日本じゅうがそういうひとびとであふれかえっているのかもしれない。

☆現在閉店セール中の百貨店へ行ってみると、商品を売り尽くしている真っ最中だった。そんなことはわかりきっていたが、変りはてた売り場を見ると、親しいひとが亡くなって形見分けに押しかけたわるい親戚になったような気分になり、とてもお買物する気になれず、淋しい気持だけ抱えて手ぶらで帰ってしまった。百貨店から手ぶらで帰るひとが多いから閉店セールをする事態に陥っているというのに。せめて地下の食堂へは行きたいと思っている。

 

二度と行けなかった場所の話

☆免許とりたてのころ、夜ごと浮かれて父の車を駆っては市内をぶらぶら散歩していた。車はどんどん運転しろという父の方針を最大限悪用してのことだった。パワステでもないマニュアル車、しかも典型的なおっさん車の色・形であったが、うら若かった私には初心者マークをつけた、いかにも借り物に見えるかっこわるい車がお似合いだった。

☆ある風の強い夜、自宅から離れた国道をひとり走っていたのだが、左に派手な美容院のある交差点でなんとなく右折しそのまましばらく直進したところ、突然ひらけた場所に出た。そこは舗装されておらず、街灯もなく真っ暗で、おとぎ話の魔女が棲むような、とんがり屋根がいくつかある大きなお屋敷が一軒建っていた。空には月も星も見えず、背の高い木が強風に枝葉を揺さぶられているだけだった。私は車を停めて窓を開け、その魅惑的な光景を目からビームを出しつつ見つめ「いいとこ見っけ! またここへ来よう!!」と考えていた。

☆何日かして、またあのお屋敷を見ようとわくわくしながら同じコースを走った。が、どういうわけかあの場所へたどり着けない。驚いて何度もあの夜と同じ道順で走ってみたが、なにしろ簡単な道順だ、間違っているとは思えない。それなのにどうしてもあの場所に出られないのである。

☆もしかしたら私の単なる勘違いだったのかもしれない。道しるべだったあの派手な美容院もいつのまにかなくなり、私も車を運転しなくなり、もう確かめるすべもなくなったが、あれは一体なんだったのか、私が見たものはなんだったのだろうといまでも不思議に思う出来事だ。

 

 

☆追記

先日、市内の道に詳しいひとにこのことを話すと、むかしからあの辺りにひらけた場所はないとのことだった。

 

はじめての夜道のひとり歩きのこと

☆あれはおそらく中学一年の夏休み、近所の盆踊りの夜に人生初の「夜間外出」の許可がおりた。独裁者気取りの両親の気まぐれだ。

☆私は夜の外出に憧れていた。夜に関する知識といえば、黒い空に月と星があることくらいだったが、それ以外の「夜」も見てみたかったのだ。学校では、塾通いのよその子たちがよく「ゆうべの話」をしていたけれども、コドモを塾に通わせる経済力のない(または貯蓄に夢中で塾どころでない)家庭だったせいもあり、毎日夕方5時から家に閉じ込められていたのだった。

☆さて盆踊りの三日間、私は一人きりでやたらめったら近所をうろつきまわった。盆踊りに参加したいわけでもなく、そうかといって行く当てもなく、つるむ相手もない。さんざさまよった挙げ句、気がつけば街灯もまばらな柳並木に立っていた。

そんなときに限って、幼いころ祖母から「柳の下にはユーレイがつきもの」と聞かされていたことを思いだしてしまい、「柳一本につきユーレイ一名いたらどうしよう。」と足がすくんだが、その線で行くと道の両端がユーレイだらけというたいへんにぎやかなことになる。じっさいにはユーレイは一名も現れず、三日のあいだ、幸いなことに変なおじさんなどの危険な人類にも遭遇しなかったが、私が見てみたかった「夜」を発見することはとうとうできなかった。

☆それからもう少し大きくなって「見てみたかった夜」を見ることはできた。何のことはない、いわゆる繁華街、ネオン街といった、明るい電飾で夜が飾りつけられている風景である。しかし飲み屋さんへゆく習慣はついぞつかなかった。ああいった状況でお酒を飲む必然性が理解できなかったのだ。夜の選択肢は、部屋でひとり本を読んだり映画を観たり音楽を聴いたり作ったりするか、ライヴハウスへ出かけて酔っ払うかのどちらかだった。

☆あの日から現在に至るまで、夜の外出は好きだが夜道のひとり歩きは嫌いである。